拝啓、婚約者さま
その日、彼が私を訪ねてきたとき、私はちょうど書斎で庭の藤棚を眺めていた。藤の花房は鈴のように風に揺れている。薄紫の花びらが揺れるたびに、枝の隙間からこぼれる日差しが私の机に落ち、まるで刻一刻と移り変わる時間の断片を示しているように見えた。
彼はノックもせずに扉を開けた。いつも通りだ。控えめだけれども、わずかに乱暴なところが、彼という人間を何よりもよく表している。――短い逡巡のあと「少し話をしたい」と彼は言った。私は手元の本を閉じ、音を立てて机に置く。異論はない。
「もちろん」と答えた。
彼は椅子に腰掛けず、立ったままの状態で私に向き合っている。その立ち姿にはどこかぎこちなさがあり、まるで練習不足の俳優が舞台に立っているようだった。彼は、長い間、何も言わなかった。沈黙の中で、庭の鳥の鳴き声と彼の息遣いだけが聞こえる。
「婚約を解消したい」
彼はようやく口を開いた。
その言葉が発せられるまでに、彼がどれほどの時間をかけたかを思うと、不思議と私の心は凪いでいた。言葉そのものは鋭い剣のようだったが、実際には柔らかい布のように私の心に触れただけだった。
「そう」と私は言った。それ以上の言葉は何も浮かばなかった。
「君は驚かないのか?」彼は私をじっと見た。その目には、ほんの少しの戸惑いと、ある種の罪悪感が宿っている。
「驚くことではないわ」と私は答えた。実際、私は少しも驚いていなかった。むしろ、こういう日が来るのをずっと前から予感していたように思う。私たちの間には、どこか薄い霧のようなものが漂っていて、それが晴れる日は来ないのかも知れないと感じていたのだ。
彼は何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。代わりに、彼の目が庭の藤棚に向けられた。風が吹き、紫色の花房が揺れる。その光景をしばらく眺めたあと、彼は「それでは」とだけ言い、踵を返して部屋を出て行った。
扉が閉まる音がして、再び静寂が訪れた。私は椅子に深く腰掛け、本を開き直した。しかしページをめくる手はしばらく動かなかった。頭の中には彼の言葉と、風に揺れる藤の花のイメージが残っている。
彼のいなくなった部屋の空気は、少しだけ軽くなったように思う。そして私はその軽さにほんの少しだけ困惑しながら、再び本の文字へと意識を戻した。
◆◆◆
その夜、私はいつも通りに食事をとり、湯に浸かり、寝室に戻った。机の上には未開封の手紙が一通置いてあった。それは母からのものだった。母の手紙はいつも美しい筆跡で綴られていて、その内容は穏やかだった。季節の変化や最近の出来事について、どこか遠回しで、けれども温かい言葉が綴られている。けれどもその夜は、それを読む気にはなれなかった。私はただ手紙を横に置き、ベッドに身を沈めた。
目を閉じると、彼の言葉が繰り返し浮かび上がった。「婚約を解消したい」。その声は不思議なくらい穏やかで、ほとんど感情が乗っていなかった。――彼が私を愛していないのは分かっていた。でも、だからといって、そこにもう少し、熱や葛藤があってもいいのではないか。
私はベッドの中で体を丸め、薄い布団をきつく握りしめた。けれども涙は出なかった。代わりに、頭の中には奇妙に冷静な思考が浮かんでいた。彼のいない生活がどのようなものになるのかを想像してみたのだ。彼の声がもう聞こえなくなる。彼の笑顔を見ることもない。彼と一緒に街に出掛けることも、未来について話し合うこともない。それは確かに寂しいことだろう。でも、そこに絶望的な穴が開くような感覚はなかった。ただ一つのピースが机の上から静かに取り去られるような、そんな軽い喪失感だった。
翌朝、私は少し早めに起きて庭に出た。草木に降りた朝露が空気を冷たくする。足元の土はしっとりとしていて、踏みしめるたびに小さな音を立てた。藤棚の下に立つと、昨夜感じた喪失感がまた薄く胸を叩く。けれども、それは思った以上に微弱だった。私は空を見上げ、長く深呼吸をする。
それから書斎に戻り、机に座って一枚の便箋を取り出した。しばらくペンを手にして考えたあと、ゆっくりと文字を綴り始めた。彼に宛てた手紙を書くことに決めたのだ。
「あなたの決断を尊重します」と書いたあと、私は手を止めた。その短い一文がどこか他人事のように感じられたからだ。何かもっと言葉を足すべきなのかもしれない。けれども、何を書けばいいのかは分からなかった。
そのとき、不意に母の手紙のことを思い出した。机の隅に置いてある未開封の封筒が目に入る。私はそれを手に取り、封を切った。母の言葉はいつもの通りだった。春が近づいていること、庭の花が今年も綺麗に咲いていること、――そしていつでも帰ってきていいのだということ。たったそれだけの内容だったが、その短い一文が、私の中に何か温かいものを呼び覚ました。
私は彼への手紙をもう一度書き直した。簡潔で、けれども誠実な言葉を選び、最後に「どうかお元気で」と添えた。そしてそれを封筒に入れ、机の上にそっと置いた。
その日、私の心には小さな空洞があった。それはまだ埋まることのない空洞だったが、それを抱えたままでも私は進むことができると分かっていた。その空洞の形や大きさを無理に測ろうとするのはやめることにした。ただそれがそこにあるという事実を、静かに受け入れながら生きていく。それが、私の選んだ道だった。
◇◇◇
彼女に婚約解消を告げたのは、穏やかな午後のことだった。いつも通りに彼女の屋敷を訪れ、書斎に通された。彼女は机に座り、庭の藤棚を眺めていた。その姿を見た瞬間、私はやはり彼女に伝えなければならないのだと思った。静かで、どこか孤高な雰囲気を纏う彼女は、これ以上私の隣にいるべきではない。彼女にはもっと相応しい相手がいる――少なくとも、私はそう信じたかった。
「少し話があるんだ」と私は言った。
彼女は本を閉じて私を見た。その瞳にはいつもの冷静さが宿っていた。彼女は私が何を言おうとしているのかを、すでに理解しているようだった。そしてその理解の速さが、私の言葉を一層重くした。
「婚約を解消したい」と私は言った。できるだけ平静を装おうと努めたが、自分の声が微かに震えているのがわかった。
彼女は一瞬、私の言葉を反芻するように黙った。そして静かに、「そう」とだけ言った。その言葉には驚きも怒りもなかった。ただ、静かに事実を受け入れた。
その瞬間、私は胸の奥に妙な空虚感を覚える。こんなはずじゃなかったのに、という感情が静かに湧き上がる。彼女が動揺するのを想像していたのだろうか。いや、むしろ、少しでも私を責めてくれた方が良かったのかもしれない。彼女が何も言わないことで、私は彼女の価値を改めて理解する羽目になった。
屋敷を後にし、馬車に揺られる間、私は新しい婚約者のことを考えた。彼女は情熱的で、生き生きとしていて、私をまるで太陽のように明るく照らしてくれる女性だった。彼女が笑うたびに、私は自分が何者かになれる気がした。それは、以前の婚約者だった彼女とは正反対の感覚だった。彼女はいつも冷静で、どこか遠い場所にいるようだった。私が何を言っても、その心の奥深くには届いていないように感じられた。
「あの人は貴方にふさわしくないわ」と言われたことがある。新しい婚約者の言葉に悪意はなく、むしろ私を励ますためだったのだろう。私はそのとき、そうかもしれない、と応じた。そして、その言葉にどこか救われたような気持ちになった。
だが、今になって思えば、それは自分への言い訳だったのかもしれない。彼女が冷静すぎるのではなく、私が彼女の冷静さに向き合う勇気を持てなかっただけなのかもしれない、と。
翌日、彼女からの手紙が届いた。簡潔で、しかし誠実な内容だった。「どうかお元気で」という言葉が最後に書かれていた。それを読んだ瞬間、私はやはり、と思った。彼女らしい反応だ。感情を荒げることもなく、冷静に物事を受け止める姿勢。それが彼女の美点であり、私が彼女を好きになった理由でもあった。
だが、その冷静さが、今となっては私を苦しめた。もし彼女が泣いてくれたら。もし彼女が私を責めてくれたら。
私は手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。彼女は本当に私を必要としていなかったのだろうか。いや、そうではない。彼女は私に依存しなかっただけなのだ。本当に、彼女が私を愛していなかったと言えるのか――その答えは、私には分からないままだった。
新しい婚約者と出かけた日のことだった。彼女が笑いながら私の袖を引っ張り、小さなケーキ屋へと誘った。その姿はたしかに可愛らしく、私は彼女に微笑み返した。けれどもその瞬間、不意に以前の婚約者の姿が脳裏をよぎった。藤棚の見える窓の前で静かに本を読む彼女の後ろ姿。それは私にとって、ひとつの完成された美しい絵画のようだった。
新しい婚約者の声が現実へと私を引き戻した。「どうしたの?」と彼女は不思議そうに聞いた。
「いや、何でもない」と私は答えた。そして自分自身に言い聞かせた。これで良いのだ、と。
けれどもその夜から、彼女の屋敷を訪れたあの日のことを、私は繰り返し思い出す。夢の中で彼女はただ微笑んでいた。
――私は、取り返しのつかないことをしてしまったのかも知れない。遅すぎるということを知りながらも、時間を戻すことは出来なかった。
私は初めて涙を流した。後悔と喪失感が胸を締めつけ、どうしようもなかった。
◆◆◆
彼が去った翌々日、私はいつも通りに目を覚ました。カーテン越しに差し込む光、窓の外でさえずる小鳥たち、そのすべてが変わらない日常を告げていた。
朝の支度を済ませてから、私は庭へ向かった。いつもと同じように、手にはお気に入りの本を持って。庭師が手入れをしてくれた藤棚の下に腰を下ろし、ページをめくる。文字の一つひとつは目を通り過ぎていくけれど、その内容が心に染み込むことはなかった。
愛していなかったわけではない。それどころか、彼の隣にいる時間は私にとって特別なものだった。けれども、彼が求めていたものと、私が与えられるものが違っていたのだろう。それに気づいていながら、私はそれを修正しようとしなかった。いや、修正できなかったのだ。
昼食を終えたあと、書斎の机に座り、昨日彼に送った手紙の返事が来るかもしれないと考えた。だが、すぐに思い直す。彼はもう私に何も送らないだろうし、私も彼にこれ以上の言葉をかける必要はない。私たちの物語は、それで終わったのだ。
彼のいない未来を想像する。それは空白のページのようだった。何が書かれるか分からない未知のページ。けれども、私はそのページを恐れるつもりはなかった。それは、私の人生の一部として受け入れるべきものだったからだ。
数日後、私は街へ出かけた。久しぶりの外出だったが、空気が澄んでいて心地よかった。馬車の窓越しに眺める街並みは、変わらず賑やかで、人々の笑い声が響いていた。
彼と最後に訪れた本屋の前を通りかかったとき、私は少しだけ立ち止まった。その店の中で、彼はいつも無邪気に本を選び、私にもおすすめの一冊を差し出してくれた。その瞬間の彼は、まるで少年のようだった。そんな彼の姿を思い出すと、胸が少しだけ痛んだ。
店内に入ろうかどうか迷ったが、結局そのまま歩き出した。過去に縋る必要はないのだ。私にはこれからの時間がある。新しい本を選ぶのは、また別の日でもいい。
その夜、寝室でランプを灯しながら、私は日記を書いた。そこに記された言葉は短いものだったが、どれも正直な気持ちを記した。
「彼は情熱的な女性を選んだ。それは私にはないものだった。けれども、私は私であることを捨てるつもりはない。」
ペンを置き、少しの間、ランプの灯りを眺めた。その温かな光が揺れるたびに、私の中にあったわずかな寂しさも揺らいでいくようだった。
彼との日々は、私にとって大切な思い出だ。それが終わったからといって、私自身が変わるわけではない。むしろ、私はこれからもっと強く、自分らしく生きていくのだ。そう考えると、不思議と心が軽くなった。
次の朝、私は庭で別の本を開いた。藤棚の花は変わらず揺れていて、陽射しは柔らかかった。その光の中で、私は静かにページをめくり始めた。
物語はまだ始まったばかりだ。そしてその物語の主人公は、他ならぬ私なのだと、はっきりと分かっていた。