妻の記憶
小百合―。
妻との記憶とともに、その頃食べた弁当の味が男の口に甦り、梅干の酸味に誘われて、唾が滲み出してきた。
「お客様」
「はい?」
「こちらは、この四月から健康増進法の施行にあたり、禁煙になっていまして……」
詫びるように言う行員はまだあどけなさの残る若い女だ。何度か話したことがある気がするが……よくは思い出せない。
「それは、すみません」
自分の顔に赤みがさしたのを感じた。つまらん思い出に浸ってしまった。重なるはずのない女子行員の顔と今は亡き妻の顔が重なり、処理に困る動揺を男は感じた。
「お客さま」
「はい?」
腰を曲げて、座っている自分の顔を見ている行員を見上げると、右目の視界が狭いことに気づいた。どうやら女もその右目の少し上を見ているようだ。
「どうなさいました?」
何のことを言っているのか、男は考えて、さっき痛んでいた傷のことだと気がついた。大げさな目で見ないでくれ、大したことないのだ。
「少しぶつけただけですよ」
自然と声が大きくなった。すぐにその行員は店の奥に引き上げた。もう一度、右手中指の先で傷に触れる。その指先についた膿も固まって硬くなっている。思ったよりも傷は深いようだった。
「お客さま」
奥から戻ってきた若い女は、心配そうに両の目尻を下げ、心配そうな表情を隠すように微笑んで、濡れたタオルを差し出した。鮮やかな光を放つ黄色いタオルだった。タオルの黄色が目に沁みた。タオルを見たのと同時に、また亡き妻の顔が浮かんだが、すぐに消した。胸のどこかが傷口を撫でられたようにひりひりした。治りかけた擦り傷を強く摩られ、痛みが後から急に膨らんでいくように、体全体に忘れていた痛みが広がっていく。男は痛みに堪えながらも、笑みを作った。
「これはどうも……」
耐え難い痛みに耐えながら、男は意識を目の前に広がる世界に引き戻した。
まいったな、若いのは大げさだから―
全身に広がる痛みを跳ね除けるように、男は次の言葉を話した。
「昔、戦争で満州に出てましてね。鉄砲の弾を右足に受けまして、そのまま貫通しました。それで、今では左右の足の長さが違うんです。だから、ほら、左右の靴底の厚さを変えて、不自由ないようにしてあります」
男は自分の履いている厚さの違う靴底を見せようと靴のかかとをその行員に見せた。
「はい?」
若い女はきょとんとした顔だ。
「いえ、何でもありません」
この程度の傷は心配ないということを伝えようとしただけだったが少し喋りすぎてしまった。男は自分の顔が紅潮するのが分かった。さっきの酒の酔いが回ってきたのか。それを隠すように視線を床のカーペットに落とす。靴から視線を自分の腿に移すと、樹液のようなものがこびりついたスラックスが見えた。
「ああっ」
自分が知らないうちに、衣服がひどく汚れていることに、少し男は狼狽した。Yシャツの袖も膿で汚れている。
「大丈夫ですか?」
若い女の心配そうな顔がまた無理に笑った。
俺は左足に弾丸を受けているんだ
地の底から生還したんだ
男は顔の隅で優しく笑った。