老人と青年
オレは、彼が入ってくるのを待っていた。自分でうまく説明できるだろうか。いや、説明はできるはずだが、それでは彼が納得しないのだ。
「来たわよ」
恭子さんがオレに目配せをする。数秒ほどして彼が入ってきた。彼女は勘がいい。えんぴつのような細長い体が、また少し痩せたように見えた。
十月の時と同じようにライディは十二月の第二月曜日も九時過ぎにやって来て、ロビーで同じようにタバコを吸う。そして注意したオレに驚いた顔を見せ、そして、これぞ謝罪の手本だと思わせるほど素直に詫びる。そのまま、ATMへ行き、自分の口座に残金がないことに憤る、と筋書きが決まっている。そして、恭子さんの一言で全て解決してしまうのだ。
オレは芝居をしている役者のように、あらかじめ決められた台詞を言い、そしてあらかじめ決められた彼の反応を待つ。この老人との芝居もここしばらく続いている。その頃、普段は役立たずの自分には悪くはない仕事だと思っていた。たとえ周りからどんなに馬鹿馬鹿しく思われても、オレはこの芝居には手を抜かないと決めていた。周囲に言わせると面倒な老人だが、とうの本人には悪気はない。オレはこの老人との芝居を通して老人から学んだことがあった。年を取るということは、様々なものを人から奪う。この酒臭さと、それとはまた別の異臭を放つこの老人には身辺の世話をする者の存在は感じられない。独りなのだ。そして健康で元気な体も失う。この人も若いころはたった数段のゆるやかな階段に足を取られたり、何もないところで足をとられ転んでしまうようなこともなかったのだろう。中国の山の中を走り回っていたはずだし、非情な上官に何度殴られても立ち上がった若者だったはずだ。また健全な精神すらも、この人はもう失っているのかも知れない。一人で商店街の真ん中で暴れる老人の姿が自然と浮ぶ。健全な体も精神も失った人間が生きていくことの意味を、まだその頃のオレは知らない。でも、こうなった今でもなお、この老人は、懸命に生きている。過去ととを行き来しながら、自分の生を生きている。様々な若い自分には想像もつかないものを、この救いようのないほど惨めな老人は失ってきたのではないだろうか。しかし一方で、歳を取ることは、生きていく中で必然的に人間が身に付けていく邪悪なものや無駄なものの様々を脱ぎ捨てて行くことなのかもしれない、ともオレはこの老人を見て思うようになった。生来の人間にはない、浄化された魂をこの老人に感じた。人間は無垢に生まれ、要らないものを背負いながら歳を重ねていく。そしてある時を境にそれらを少しずつ脱ぎ捨てて行くのではないか。そしてこの老人は、それらを全て脱ぎ捨ててもなお飽き足りず自らの体に刻み込んだものさえも削ぎ落としてきたのではないか。
「この機械、おかしいんだよ!」
「はい、ただいまうかがいます!」
二ヶ月に一度、どこからともなく現れて、またどこかへ消えていく老人。この世の終わりを思わせるほどの動揺と落胆の顔と、恫喝ともとれる恐ろしい表情、無垢で他意のない笑顔を置いて帰るこの老人はいったい何者なのだろうか。
「もう出金されているようなんですが……」
「そんなはずはないんだけどな……」
「もう一度ご確認いただけますか?」
オレには老人の血走り濁った眼球の奥深くに澄んだ水を湛えた泉が見えていた。その瞳を通してこの人はどれほど多くのものを見てきたのだろうか。
「ありがとうございました」
彼は本当に自分と同じ世界の住人なのだろうか。自動ドアの向こうに消えていくその背中に、多くのものを削ぎ落としてきた傷跡を見、そこに今まで見たことのない深い孤独を感じた。オレはいつまで会えるか分からないこの老人の生き様をできるだけこの目に焼き付けておきたい、そう思った。
つづく




