聖女マリア編②
奴隷市場から離れて私とジャンゴは、一度ホテルへ来ていた。部屋のベッドの上に彼は、銃を収納するケースのついたベルトを置き、一杯の水を飲み干すと4階の部屋の窓を開けて外の景色をぼーっと眺めていた。
男は、何をするでもなく旅の疲れを癒していた。そんなジャンゴを遠目にシャワー室の向こうのお風呂場全体を覆うカーテン越しに1人の男のシルエットを見ながら私は、尋ねた。
「……このホテルは、気に入った?」
シャワーの水が私の体へ降りかかる。少し水の勢いが強いと感じた私が、蛇口に手を置き、それを回す。回しながら、蛇口に魔力を込める。すると、シャワーの水が先程よりも少し優しめになり、私の肌を優しく水滴が滑り落ちる。
少し間を開けてからジャンゴのシルエットが、窓の外をぼーっと眺めたままコップに入った水を口から離して「あぁ」と一言だけ返事を返してきた。
「良かった。助けてくれたお礼は、これでちゃんとできたかな? 本当にさっきは、ありがとう」
「あぁ……」
ジャンゴは、素っ気ない返事を返すだけだった。しかし、それからまた少し間が空いてから彼は、真っ直ぐ外を見続けた状態で、聞き取りづらいボソッとした声で喋りだした。
「それにしても本当に景色が良い」
「……当然だよ。なんたって、ここはこの町で一番綺麗な景色を見れるホテルなんだよ」
そう言いながら、彼の部屋のシャワー室を借りていた私は、引き続きお風呂を堪能していた。湯船に溜まったお湯を手で掬って、ピチャピチャさせてみたり、シャワーを浴びながら口をあーっと大きく開けてみたりしていた。
――明らかに……ジャンゴよりも先にここを満喫している。
少ししてから髪の毛に泡をつける。ゴシゴシと泡立たせながら頭をじっくり手で揉み、それから髪の毛全体に泡がいきわたった所で、シャワーの蛇口をひねって再び洗い落としていった。
シャンプーの泡は、水に流れて頭から滑り落ちていき、胸……そして、お腹。やがて、太ももの辺りをゆっくり撫でるように滑り落ちていき、最後は水と一緒に流れ落ちていった……。
私は、そんな泡の一生を気づくとぼーっと見つめていた後に改めて、ホテルの説明を続けた。
「……この町一、綺麗なホテルと言っても、この辺りは魔族領に近い事もあって観光客とか旅行客はほとんど来ないの。だから実を言うとホテルは、ここだけ。ナンバー1というよりもオンリー1なんだ。でも、凄く良い所でしょう? お部屋も景色も……。それに……牛乳も!」
「……牛乳?」
ジャンゴが、向こうから疑問を告げてくる。その声は、これまでの彼の印象からは、想像もつかない位に間抜けな感じの声だった。私が、何を言っているのか理解できない様子が声を聞いてすぐに分かったので彼に、丁寧に教えてあげる事にした。
「……知らないの? ふふふっ……ここのホテルはね、牛乳の販売もやっているの! しかも、牧場からのとれたて新鮮のを! だから、こうやってここに泊まる時は、必ずシャワーの後と寝る前。それから、朝起きてから必ず牛乳を飲むの! それが、このホテルの楽しみ方よ!」
「……お、おう。どおりで、チェックインの時にミルクの瓶を2つも買ってたわけだ。……色々と詳しいな。流石、この町のガイドだ」
「私は、別にガイドなんかじゃないよ。ただ、ちょっとだけ情報に詳しいだけ」
「ほぉ……。と言う事は、情報屋か? それにしても……まさか、鍵が魔力で開く仕組みになっているだなんて……想像してなかったな」
「今時、何処もそうでしょう? そもそも魔力のないのは、泊まる事さえできないんだから……。それより良いの? 私が、この部屋のロックを最初に解除しちゃったから今後は、私がいないとドア開かないわよ?」
本当、何処に行っても当たり前の事だ。この世界の道具は、ここ数十年の間に進化を遂げ、大概のものは魔力を込める事によって動き出すようになっている。逆に言うと、魔力のない人間は、この世界のモノを一切使う事ができないようになってきている。だからこそ、魔力を持たない者は、奴隷としてその生涯を過ごす他ない。それが、大昔からこの世界の在り方だ。
――当たり前の事なのに、そんな事わざわざ聞いてくるなんて不思議な人ね……。
すると、ジャンゴは少し間を置いてから告げた。
「……構わない。色々と詳しく教えてくれた礼だ。風呂だって好きに使ってくれて良い。それに……寝る前に話し相手が欲しいしな」
「ふーん……」
私は、シャワーを止めて、カーテンの向こうに置いておいたバスタオルを手に取り、体を拭く。
――話し相手……か。クールなようで、意外と寂しがり屋な所もあるみたい……。変な人ね。お風呂まで好きに使って良いだなんて……何か、狙ってるのかしら? まぁ、彼も男だし……さっきの奴隷を見ている時も……ちょっと鼻の下伸ばしてる感じしたし。まっ、まぁ私は、そこまで軽い女じゃないし……簡単には、アンタの期待しているような事なんてさせてあげないし!
……と、1人で色々考え事をしながら体中の水気を拭き終えると、最後に濡れた髪の毛をしっかりタオルで包み込むようにギュッと拭き込む。それから、私はバスタオルを体に巻いた。
そして、タオルを巻いた状態で私は、カーテンを開けてシャワー室から出て行き、向こうのテーブルに置いておいた牛乳の瓶を手に取り、それを飲んだ。
――風呂上がりの牛乳。これに勝る快楽は、この世には存在しない。お風呂上がりの少し火照った体に流し込む濃厚な牛乳。タオルを巻いて、少しだけ開放的な気分になっている時に一気に飲み干すコイツときたら……もう病みつきになってしまいそうだ。
いつ、どんな時であろうと私は、必ずお風呂から上がったらすぐに飲む事にしている。この快楽の前では、如何なる理性も抗えない。あんな話をした後で正直、彼の事は警戒している。
しかし……しかし、だ。服を着てから飲むのでは、遅い。否、遅すぎだ。温かいものだって、温かいうちに早く食べると美味しいというように……風呂上がりの牛乳もお風呂から上がってすぐが一番飲み時なのだ。
「……くぅ! やっぱ、これよ! これぇ!」
牛乳の旨味に感動する私の隣では、ジャンゴが……。しかし、意外な事に彼は決してこっちを向こうとはしなかった。ただ、ずっと窓の外の景色を見ているだけであった。
――何も感じないのだろうか……。
少し疑問を感じたが、すぐに彼は告げてきた。
「……なっなぜ、すぐに服を着ない?」
「当たり前でしょう! シャワーを浴びたらすぐ、牛乳を飲まないと。これは、常識よ! 服なんか着ている暇があったら、瓶を一本飲み干す! そうじゃなきゃ、台無しよ。パンティーより、牛乳瓶! 同じ10秒でもここまで重みは、違うのよ! これこそ、私の完璧なルーティーン!」
「……そっ、そうか」
彼は、決してこっちを向かなかった。私が牛乳を飲み終えて、着替え終わるまでずっと、外の景色を見続けていた。彼は、絶対にこちらを向いたりしない。
飲みながら私は、彼の後ろ姿を見て思った。
――意外と、紳士なのね……。あの荒々しい戦いっぷりを見た後だと、少しギャップを感じる。何というか……いくら、いつものルーティンを行うためといえ、こうして知らない男の前で素っ裸のまま牛乳を飲んだ私が……自分自身が、少し恥ずかしくなってくる。
ちょっとだけ、少しだけ頬が赤くなっていくのが分かった気がする。……って、いけないいけない! こんな事を考えてちゃダメよ。早く一気飲みしないと……ぬるくなってまずくなっちゃう……。
そう思いながら私は、牛乳瓶に入った残りを全て飲み干す。しかし……頬が赤く染まって、顔に少し熱を感じるせいか、今日の牛乳は、なんだかすぐにぬるくなった感じがした。
*
やがて、私は着替え終えると、最初に出会った時からずっと気になっていた疑問を彼に尋ねてみる事にした。
「……ねぇ、その棺桶……。それ、中に何が入っているの?」
ジャンゴは、私が着替え終わったのにまだ、外の景色をじーっと見つめたままだった。彼は、一切こちらを振り向かないで告げた。
「……気にするな」
「気にするなって言われて、はいって答えれるようなのじゃないでしょう。棺桶よ? 棺桶? 中にもしも、死体とか入ってたらどうするのよ?」
「それは、ない。安心しろ……」
「そっかぁ。なら、何も心配いらないわね~! ……って、そうはならないでしょう!」
私は、先程から全然棺桶の中の事を説明しようとしてくれないジャンゴに対して呆れて溜息混じりに告げた。
「貴方、只者じゃないわ。でも、答えたくないんだったらせめて、1つだけ教えて。さっきのあの鉄でできた魔法の杖……えーっと、名前はなんだったかしら……」
「……魔法の杖?」
ジャンゴは、一瞬だけ何の事を言っているのかよく分からない風な顔をして固まっていた。しかし、すぐに私の言っている事がなんであるかを察してくれた様子で、ベルトに装填されている武器に一瞬だけ視線を移してから告げた。
「……あぁ、リボルバー式銃の事か。やはり、この世界の人間は、銃を知らないみたいだな……」
「……銃?」
疑問を口にしながら私は、彼の隣へと歩いて行き、彼が見ているのと同じ窓の外の景色を眺めながら2本目の牛乳を飲み始める。すると、それと同じタイミングでジャンゴは、説明を始めた。
「……あれは、魔法なんかじゃない。俺の銃……いや、リボルバーは魔法なんか使えない。コイツは、ただの武器さ。この世界で俺しか知らない。……俺しか使う事のできない。俺だけの武器さ」
「……意味が分からないわ。あんな一瞬にして何人も人を殺せるような代物が魔法じゃないですって……それなら、どう説明を……」
「……ただの早撃ちだ。俺もどうして、この世界で銃が存在しないのかを長い事1人で考えたが……1つの結論として、こっちの世界では、魔法の文明が発達し過ぎたあまり、一般の人が銃を持つ必要がなくなって魔法の早撃ちが主流になっている。魔法の使えない人間は、武器を持たせられないしな……。俺のいた世界じゃ魔法はない。皆、コイツに頼るしかないのさ」
「魔法が……ない?」
「あぁ……。魔法も魔力も……俺が前にいた世界じゃなかった。むしろ、魔法使いだなんて名乗り出た時には、詐欺師のレッテルを貼りつけられるな」
「それじゃあ、貴方はもしかして……?」
率直な疑問を口にしようとした私だったが、隣に立っていたジャンゴは、外の景色を真っ直ぐ見つめたまま一切、こちらを振り向く事はなかった。私の頭の中にうっすらと……1つの新しい疑問が浮かび上がって来たが……それに関して聞こうか否か考えて……やっぱりやめた。ジャンゴは、はっきりと告げるのだった。
「……だから、言っただろう? 俺は、帰る場所のない人だ」
「帰る場所が……ない」
彼の言葉は、冷たい。完全に冷酷で……それは、私が今まで見てきたどんな氷の魔法よりも冷たく、ただの日光じゃ溶けやしない位に心の闇で覆い尽くされている。……けど、どうしてだかそんな彼の言葉の中に……ほんの僅かにだけ感じ取る事ができる寂しさ……暖かい場所を目指して旅をしている雪国の人のような寂しさがそこからは、感じられた。
酒場で私を助けてくれた時の……静かな殺意が牙を剥くような恐ろしい狂気とは全く違う。あの時感じた彼への不気味な感じは既にもうなく、今ではむしろ彼も1人の……いや、違う。とにかく、彼の事が謎が多くて少し怖いという印象から……ほんの少しだけ身近なものに感じられた気がした。