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九十九章《想桜》

「制約の言語回路」九十九章《想桜》


「晚上好〜」


 声がして目を開ける。全く知らない人の声。大陸語だ。堕ちたのか、そうだったかもしれない。緻里は目を開けた。


「道綾少尉は?」


「彼女は無事帰途に着きました」


 違う方向からの声、月書のものだ。


「思純は?」


「あなたが知らなくてもいいことです〜」


 最初の声が言った。


「初めまして〜、心優と言います〜。軍医ですよ〜」


 心優しんゆうは緻里の目の前で手を振った。


「見えてるみたいですね。失血もまあほどほど、肺は治しておきましたから、しばらく深呼吸は控えてくださいね〜」


***


「天港ではどうも、雨の緻里さん」


 病院のベッドで、そばに置かれた本棚に入っていた本を読んで、無聊を慰めていると、一人男性が入ってきた。


「どうも」


 緻里は返事した。


「祝誠です」


 祝誠しゅくせいは軍服を着ていなかった。大陸では珍しく襟のあるシャツを着ている。


「陸軍省の課長をしています」


「大変なところにお勤めですね」


 皮肉めいた言い回しになってしまった。


「ええ、毎日残業ですよ。生まれてからこの方、休んだことがない」


「どこかでお会いしたことがある気がするし、名前にも覚えがあります」


「第二で顔を合わせたことがあったかもしれない」


「同学ですか」


 祝誠はうなずいた。そして緻里を見ると、にっこりと笑った。爽やかな笑顔だった。


 背が高く浅黒く焼けている。シャツは仕立ての良いもので、靴はよく磨かれていた。


「思純さんから、会ってこいと言われて」


「なんとか時間を作っていらっしゃった」


「そんなに恩着せがましくしたくないのですが、まあなんとか」


「病衣ですみません」


「いえいえ。私は戦争がなければ島国に留学する予定だったんです。島国の言葉はもう「カタ、コト」ですが……、カタコト、合ってますか?」


「でもよく読める」


 祝誠は驚いた顔をした。


「そうです。よく読めます。欧米経由で島国の書物を入手します」


「そして、恐ろしい量の文献を読む。……大陸の人の文字中毒にはいつも脱帽します」


「そうすると島国のエンタメ力にやられてしまうのですよ。……戦争さえなければ、緻里さんは平和の使徒であったはずなのに。私も、そうでありたかった」


「軍人とは有事の際の平和を、まず初めに構想する」


「私もその思いは共有しています」


 持ってきたカバンから何冊か本を取り出して、祝誠は本棚に差し込んだ。「暇でしょう、最近の哲学本です」


「ありがとうございます」


「もう行かなくては。わずかな時間ですが話せて嬉しかった」


「こちらこそ」


「天港で降らせた大陸語の雨については、検討が進められています。まあ、大陸語を理解する島国の人間は、そんなにいないと思いますが」


「さあ、どうでしょう」


 それに、祝誠は答えなかった。静かに病室を後にする。


 本を手に取ってパラパラとめくる。緻里好みの哲学本だった。


***


 天港の件があったことで、大陸側が、緻里を島国に返すことは容易にはできなかった。


 しばらく大陸に身を寄せる。そういうルールに、緻里は基本的に則るつもりだった。


「緻里先生っ!」


 ガラリと扉を開けて、人が入ってくる。


「陽成くん」


「月書から知らされて、……、お元気でしたか?」


「ご覧の通りの体たらくで」


「そんな」


「しかし、よく僕に面会できたね」


「今、俺は外交省で官吏をやっているんです。だから、その、」


「仕事なんだ?」


 陽成はうなずいた。


「仕事というか、無理やりねじ込みました。先生。お帰りなさい」


「ただいま」


「お菓子と飲み物を持ってきたんですよ、食べませんか?」


「ありがとう、いただくよ。この、梅のジュース、好きなんだ」


「研究室の冷蔵庫にいつもありました」


「よく覚えているね」


「月書によると、道綾も、いたみたいですね」


「あぁ、私たちだけが大陸を好きなんだ。それが皮肉なことに一番槍を担ぐ」


「墜落した爆撃機のパイロットで、生存している方が一人。大陸語がわからないらしく、俺が呼ばれたんです」


 緻里は目をしばたいた。


「名前は?」


「メモによると想桜、島国の発音では、そうおう、でしょうか。女性ですね」


「知らないな。僕は、ずいぶんニッチなところにいるから。パイロットは海都の要塞所属では、スーパーエリートだ。気難しいかもしれないよ」


「それは怖い」


「そのカバンの中は、想桜さんへの差し入れ?」


「少しでも、和やかに話したくて」


「陽成くんはわかると思うけど、大陸のジュースやお菓子が、島国の人の口に合うことは珍しいよ」


「でも、こちらでは、たけのこの里は買えません」


「それもそうか」


***


 ノックの音がして、人が入って来た。


 病室のベッドに腰掛けて、想桜は洋書を読んでいた。親切で本棚に差し込まれた、洋書。


「こんにちは、想桜さん」


「こんにちは」


「外交省の官吏をやっています、陽成と申します」


「想桜です、何か私にご用事でも?」


「いえ、こちらの外交部員が、無様にも日本語を話せないということで、私がお話を伺いに来ました」


「特に、話せることはないですけれど。それと、私が話している言葉は、現在日本語とは呼ばれていません」


「私のちょっとしたこだわりです」


「英語でも、それなりにコミュニケーションできたと思っていました」


 想桜は洋書を閉じた。


「おいくつですか?」


「28歳」


「ご出身は?」


「保度。島国の西です。一応、前いらっしゃった方にもお伝えしましたが」


 陽成はそれには答えず、にっこりと笑った。


「大学は?」


「八峰大学」


「国立ですね」


 想桜は曖昧な表情を見せた。それがどうした、とばかりの、少しやるせない頬の動き。


「島国の言葉、上手ですね。本当に訛りがない」


「恐縮です」


「陽成さんは、なんで島国の言葉を覚えたんですか?」


「理由なんかとっくの昔に忘れました」


「何か、私に用ですか?」


「用と言える確たるものはありません。これ、差し入れです。大陸の飲み物と菓子ですが」


「口に合うとは思えません」


「そうおっしゃらずに、試してみてください」


 想桜は不愉快そうに首を振った。


 いくつかのやりとりをしてわかったことがある。島国の人間は、基本的に大陸人が嫌いなのだ。

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