九十八章《北城市の空》
「制約の言語回路」九十八章《北城市の空》
北城市の空を、緻里と道綾は飛んでいた。
雨を降らすだけだからと、小隊では動かず、忍んで行った。
空は綺麗に晴れていた。
15分後に爆撃機が飛んでくる。
「少佐?」
「あそこは胡同。あそこは北城市大学の湖で、今も学生が勉強している。北府外語大は、僕が教えていた大学だよ」
「それでも、雨を降らすんですね」
「遠くに第二中高がある。そこで僕は留学していた」
「懐かしいですか?」
「変わらないね。僕の気持ちは、全然変わらない」
三十機の爆撃機と聞いていたが、大陸側の迎撃で二十機に減っていた。
雨は珍しい。乾いた北城市にしとしとと降る雨に、人々は笑顔すら見せる。
「不思議な術式ね。味方が降らせた雨かと思った。その大陸語のコード面白いわ。緻里」
思純だった。隣に若い魔術師を連れている。
「月書と申します、緻里さん」
「わざわざお迎えありがとう。どうして?」
「天港で皮肉の効いた雨を降らせた島国の人がいると聞いて。島国の人は強欲だから、北城市も狙うだろうと」
思純は言った。「まだ軍人をやっているの?」
「思純は?」
「私はボランティア。今、第二で教えてる」
「そっか」
「昔、あなたとデートした時、雪が降っていたかしら。緻里、その指輪、昔私があげたもの?」
緻里は口を真一文字に引っ張って、何も言わなかった。
「そう。気が引けるわ」
爆撃機と戦闘機が押し寄せる。地上では空を見上げる人、空襲のアラートが鳴り、北城市の郊外から撃墜を目標とする砲撃が行われた。
果枝中佐が施したシールドに守られて、飛行機たちは悠々と爆弾を落としていく。
月書が動いた。高速の呪文詠唱とともに、爆弾を撃ち落としていく。
緻里も道綾も、成り行きを黙って見ていた。緻里たちと思純たちの間には驚くほどの緊張が幅を持ち、戦闘に移行するまでに、何十秒も何百秒もあった。
月書は一発も漏らさなかった。
(動けません)
道綾は念じた。
(僕もだ)
「月書は第四の首席。彼女は間違えない。あなたのように中途半端ではないの」
「辛辣だね」
「今は、あなたに優しくする必要がないから」
飛行機が襲来する。そばを通る。思純はそれを串刺しにした。
物理的な物質を生み出す思純の魔法。思純もまた緻里が異能に術式で味付けしたように、島国の言葉で果枝中佐のシールドのコードを破った。
氷の牙が飛行機の腹を突き破る。ざくりと、それだけで爆撃機は爆弾とともに爆発する。恐ろしいほどの物理魔法だった。
「道綾さん」
「はい、思純先生」
「懐かしい。あなたはとても優秀な学生だった」
道綾の声は震えていた。保持している魔素の量が違う。
一つ一つ、爆撃機は腹を抉られて、無力にも散っていく。緻里も道綾も動けなかった。
「安心したでしょう?」
「ああ」
「二人は私たちの街が好きだから、きっと、空襲なんて嫌だったんじゃない?」
「ああ、嫌だった」
「安心して緻里。北城市は、あなたの国のように神に奉じたりしない。私が守る、物理的現実なんだから」
向き合った瞬間空間が爆ぜた。
物質と反物質が一瞬で生成し消滅した。
音の遅れた雷撃が、思純の作った絶縁フィールドで防がれる。緻里は雷を纏い、移動を高速化する。
道綾が置いた、空間上のクリスタルネットを、空気中の水蒸気で溶かす。
「やるわね。さすがすぎる。そういうの、とってもセクシーだと思う」
足を止めさせて、雷速を緩和する。
思純による島国の術式中和と、緻里による大陸語の術式中和が、膨大な演算を経由して行われる。
おそらくこれまでにない、天才同士の計算力勝負だった。
自分が持っている研究済みの式を次から次へと「切って」いく。いくつもある切り札を、出し惜しみなんかしていられない。
***
「道綾さん、ですよね」
月書は道綾に声をかけた。「私たちも、と言いたいところですけど、一つだけ聞いていいですか?」
道綾はうなずいた。
「陽成って、知ってますか?」
「知ってる」
「私は彼の友達です。どこかで聞いた名前でした。道綾」
「世間は広いようで狭い」
「その大陸語の美しい発音は、思純さんに習ったんですね?」
「ええ。故南で陽成くんと会った時は、彼の北城方言に惚れ惚れしたわ」
「陽成は音楽的な男ですから。第四でも一流の男だった。少し勉強はサボっていたけど」
「故南ではそんなことなかった」
「まあ、そんなことはいいんです。準備ができたので」
道綾を焦点に合わせた魔法陣が、遥か遠くに設置されていた。球状に配置された魔法陣は、道綾が知っている魔法陣と違った。
それは魔法の異能だった。術式とか計算とかではない。呪いのや祝福の類。計算の痕跡がない。手がかりがかけらもない。
道綾も魔法を使い、その高出力の魔法砲撃を防ぐ。術式を侵食する効果はなく、かなりの出力を要求するが、なんとか耐えた。
砲撃の煙が晴れる。道綾はお得意の風の矢を放つが、届くことはなかった。
接近戦に活路を見出し、道綾は風に乗って月書に近づく。
英語術式の魔法で至近距離から撃ち抜こうとする。風で切り刻む。風圧で威力を上げた蹴りも、ことごとく弾かれた。手数を稼ぐと、月書も対応を迫られるから、弩級の魔法攻撃は襲ってこない。
風の流れから、道綾も月書の出だしがわかる。お互い決定打がなかった。
***
思純の物質生成の異能と、緻里が言雅から盗んだ虚無の魔法。それ以外にもお互いの言語で演算する術式の応酬。
物質生成、化学的特性の一時的な召喚は、緻里の異能を封じ込める。雷を絶縁物質で防ぎ、雨は凍らせる。
霧を撒き、大陸術式でフィールドを支配しようとしても、思純は最速で反転術式を組み立てる。
思純は少し笑っていた。
「好きだわ」
「もう、差し上げられるものがないよ」
爆縮で体を食おうとすることはできない。やはり言語が渦巻いていて、島国の虚無の術式を立てることができない。それは、思純の物質生成の異能もそうだった。内部から突き破ることができない。
お互いに体を体たらしめているのは、生物物理的な元素でありかつ、術式を駆動する言葉だった。
「あなたのことが好きだわ。本当にお人好しなんだから」
緻里の指輪は、思純が昔に贈ったものだった。恋愛の具象、誓いの証、思い出の結晶だった。それを媒介にして、思純は簡単な術式を構築した。
指輪は、複雑に練られた魔法のアーティファクトだった。瞬間的に緻里の体を巡る言語回路をショートさせた。
それは一瞬で、緻里はそれをすぐに正常化した。その一瞬で生成された刃が緻里の片肺を抉る。
「あ、がッ、」
息ができず、うまく言葉が出てこない。頭の中に言葉が生まれない。言語回路を回復させる。鋭い痛みと枯渇する空気。言語回路を回復させる。それは意識下で行われる。でも、体のどこが欠損したか、緻里は把握できない。反射は言語回路で行われるわけではない。
貫いた刃を消滅させる。尋常でない量の血液が吹き出しあふれこぼれ滴る。
思純は笑った。勝ったのだと安堵した。瞬間、ぴちゃりと音がした。返り血がついた。なんだ、と拭おうとした際に、道綾はその血液に織り込まれた術式に気づく。気づいても遅かった。
速さではなく密度に追いつかなかった。
一滴の血液に描かれた術式。血液は霧と化し、赤い球状の空間を作る。緻里が異能を意識的に発しなくても、その血液の球体は自発的に高密度の雷を生成した。
一方向からの雷撃ではない。周囲全てが雷と化し、その雷撃は防ぐことができなかった。
「まさかっ」
轟音とともに思純は撃墜された。
それを見届けて、緻里も意識を落とした。




