九十二章《千歳》
「制約の言語回路」九十二章《千歳》
千歳は、普通の女の子だった。
今、第十二特別小隊の末席を占める彼女は、昔から要領が悪く、孤立することも多かった。
何の因果か大学中心に受かり、孤独な学生生活を送る。勉強は苦手だから成績はいつも可と不可の間をさまよい、一年留年した後、ギリギリ単位を揃え、卒業した。
魔法の素養は昔からあったが、際立ったものではなかった。それでも、大学中心で流行していた西洋魔法を、それなりの深さで勉強した。それだけは優を取り、沈む成績に華を添えた。それがなければ、第十二特別小隊に籍を置くことはなかった。
彼女は小隊でも孤立して、戸惑い、人に話しかけることはほとんどなかった。
緻里や道綾の指示は、心して聞き、何度も反芻した。
弟がいて、弟にだけは心を開く。そんな女の子だった。
「戦争に加担するのは怖くないの?」
大学生の弟は言った。
「どこでも怖いもの。怖い方がよっぽどいい」
千歳は答える。「そうすればいつだって麻痺してられるから。私に、鋭敏な感覚は高過ぎて買えない」
千歳には大学時代にボーイフレンドがいた。
フランス人だった。千歳は大学でフランス文学を専攻していて、留学していたフランス人のカロンと仲良くなったのだ。
千歳は、彼氏にしたとはいえ、カロンのことを何一つ知らなかった。
いつもにこにこして、笑いかけてくるカロンは可愛かったが、話すフランス語は時たまわからない。
幸薄そうな千歳を、カロンはもしかしたら侮っていたかもしれない。でも千歳は、侮られることに慣れ過ぎていた。
カロンの留学は一年で、離れる時千歳は、悲しいと思った。
のめり込むほど勇気がなく、ビクビクしながら付き合っていた。まるで臆病なウサギのようだと自分を嘲笑う。
もう少し、もう少しだけ心が開けたら、と思うのだが、そもそも開くだけの内容を千歳の心は持ち合わせていなかった。
誰に相談することも、誰に頼ることもなく、さりとて完全に自立しているわけでもない中途半端。
自分を褒めることも貶すこともない。客観的な基準も、主観的な尺度も持ち合わせていなかった。
***
休憩時間にボーヴォワールを読んでいた千歳は、不意に道綾に話しかけられた。
「フランス語?」
「はい……、こんな本を読むの、似合わないですよね」
「そんなことないよ。精神の自由は、保障されてるから。読書は泉だよ、その恩沢に浴すのは、自由でもあるし、義務でもある」
千歳はぽかんとした顔で、道綾を見た。大学に入ってから、矛盾した言説にことあるごとにぶち当たり、対応できず沈黙してしまう。
「女が良き人生を孕むのに、必要なことは二つだけ。一緒にいて楽しい男友達を作ることと、その彼が読まない本を読むこと。ボーヴォワール? 最高じゃない!」
「ありがとう、ございます」
「ごめんね、私はよく話すから、好き勝手言ってるけど、寡黙もまた雄弁。千歳の為人は理解できるわ。幼顔で、髪が長くて、一人が好きで、お酒に強くて、……この前の宴会では、ポーカーずいぶん勝ってたみたいだし。ポーカーフェイスというのかしら。千歳の魅力ね」
「道綾少尉は、全てが相対的だという考え方をどう思われますか?」
「哲学的真理は、その形を保つために理論化され、人に多くの制約を課す。だから、知っているだけでいいんじゃない? 何かを教条主義的に掲げるのは、西都大学文学部哲学科の人に任せておきましょう?」
「矛盾は、どうすれば解消されるのですか?」
「殺さなければ殺される。それは私も敵も変わらない、対称的な条件。でも、強ければ殺すことができる。現実の力は、とても大切。力がなければ誰も守れない。力は、武力という形を取ることもあるし、知力という形を取ることもある。愛情の深さだって力の源。論理的な矛盾は、盾と矛が対称だから起こる。まず何かこちらから働きかける。対称の静から非対称の動へ。問題は解決しない。でも推移する」
「理由は必要なのでしょうか? 好悪は理由にならないのでしょうか?」
「緻里少佐はなんていうかわからないけど、私は理由は重要だと思う。自分に説明して、他人に説明しないと、誰も理解できないし、理解してもらえない。人と生きるならね。……たぶん、緻里少佐なら、理由を探す行為が理由本位で嫌だって言うかも。少佐は古い人だから。矛盾を抱えたまま生きている、昔ながらの島国の男よね」
「理由なんかないです」
「それなら、誰かに聞いてみたら? 誰かが千歳にやってほしいことを、やってあげたらいいと思うよ」
***
「道綾少尉は、どこの生まれなんですか?」
「冷玲」
「私もです」
「もしかして知ってた?」
「実は、聞いたことがありました。すみません」
「海通りの方?」
「私は、山脈寄りです」
そっか、と言って、道綾は千歳の向かいに座った。ポケットからメモ帳とペンを取り出して、絵を描いた。
島国の北、冷玲地方の絵だった。
具体的な場所の名前を書いていって、電車の風景、駅のさびれ具合、しょぼくれた観光地の思い出を、あふれ出すままに口にした。
土っぽい冷玲弁も、周りが聞いているのも気にせずに口からこぼれていった。
道綾が千歳と話しているのは珍しいと、遠巻きに見る新兵たち。
遠くで男子の三人組が、「千歳って笑顔結構可愛いよな」もつぶやいた。道綾は聞き逃さずクスリと笑った。
「あの訛り方も。道綾少尉も。笑う。すげえ可愛くない?」
「俺も実家帰るとあんな感じだけどな」
「へえ。ちょっと少尉たちに話しかけてこいよ」
「無茶言うなし。それナンパじゃねぇか」
千歳は自分が冷玲弁をネタにされていることに気づいて、恥ずかしそうに標準語に戻した。道綾は気づきながらも、久々に子供の頃の言葉遣いができたことを喜び、そのまま方言で話し続けた。
「そぉのイヤリング、綺麗だーぁ」
少し大きな声で、道綾は言った。
「もらったんです」
「誰にぃ?」
「フランス人の友達に……」
道綾はニコリと笑って席を立った。そして後ろの方で見物している男子たちの肩をポンと叩いて、「イヤリングくらい褒めんといけんよ」と言った。
軽く言っただけなのに、男子たちの背筋は伸び、背中はうすら寒い。
「千歳のイヤリング、可愛かろ?」
「少尉の冷玲弁も、その、かわ……」
「ん?」
「何でもありません! 失礼しました」
「よろし。ではね」
その日から千歳は人気者になった。




