九章《言雅》
「制約の言語回路」九章《言雅》
言雅は中心の博士課程に所属していた。黒真珠のように深い色味の瞳が印象的で、指は細くマニキュアは塗らない。手は皮だけで肉がないように見えた。黒髪はあまり手入れがされていない。唇は薄く、紅を入れたりはしていなかった。
いつも微笑みを浮かべ、時折皮肉を言う。
率直に感想を言い、媚び諂うことを嫌った。意志が強いのは明らかだった。
背は高く、コートを着るとすらっとして見目がよかった。
年齢を聞くことはなかったが、緻里からすると実際の年齢以上に「差」が開いているような気がした。
藤墨先生の日本文学研究室には、言雅ほか、ちらほら学生がいるが、極めて多いとは決して言えないし、なんなら学生がいない学年もあった。
「それは極めて少ないと言うんじゃない?」
緻里は言雅の目に覗き込まれ、思わず目を逸らした。
全てのものに興味がなさそうでもあり、その反面全てのものを慈しんでいる。薄くて黒い服がタイトに言雅を包み込んでいる。鎖骨の方が胸よりエロティックで、乳脂のように柔らかい色合いの肌が、黒から浮き出ていた。
言雅の持ち物は特別で、ボストンバッグを肩からかけている。バッグの中には分厚い本が何冊も入っている。有名ブランドのバッグ、ではないのだがとても丈夫で高価なバッグだ。黒の服に縁取られるようにベージュとブラウンの繊維が、シンプルな模様を織りなしながら、水も弾く。
ふぅと息を吐くのも何やら芝居がかっていて、本当に息というものを認識しているみたいだった。空気を小道具に仕立てるくらい、言雅には朝飯前なのだ。
言雅と緻里は研究室に置いてあった古い盤と駒でチェスをしていた。
二人とも別に強いわけじゃない。ただ時間を潰すために、ケトルで湯を沸かし紅茶をすすりながら駒を動かす。
「やけに紅茶が似合いますね」
「それは君もだよ」
言雅は即座に切り返した。世辞に慣れていると言わんばかり。顔立ち以上に美人に思える。
かちゃんとソーサーが音を立てる。湯気が二十センチばかり立ち昇っては消えていく。
「この辺りの出身なんですか?」
「君は、第一都市だろう? よく言われるんじゃないかな、訛ってるって」
「僕の大陸語についてなら、つい先日言われましたね」
「首都の人間の話す言葉は、訛っているものだ。文字を読むことに慣れすぎている。言語に言語性を感じないね」
「言雅さんも、きれいな標準語を話される」
「西都の人間の「訛り」は音楽だからな。あまり人様に披露するものでもない」
「どうして……」
「どうして、中心に来たのかって? さぁー、こればかりは流石の私もわからないなぁー」
狐につままれたような顔をしていると、言雅は満足そうに笑みを浮かべ、ことりと駒を進めた。
「でもさ、自分がずいぶん遠いところに来たって思うことはあるよ」
「遠いところ、ですか」
「遠さって、感覚としては無感覚に近い。血を流しても気づかない。自分のことと思えない。傷ついても、精神が麻痺して、大切な物、それは端的に言って私の体と心だけど、その価値がわからなくなるんだよ」
研究室の窓は開いていた。外から風で葉が擦れる音が運ばれてくる。
「でも、大切な物の価値は、わからないものですよ」
まばたきを何回かして、視線を落とし、言雅は席を立つと、紅茶のおかわりを二人分注いだ。
うなじが見える。首の骨が浮かび上がっている。
「なんとなくわかるけど、君は自分の過去に不満がないんだろう。そういう顔をしている」
「言雅さんは、過去に不満がある?」
「過去というか、満足とかそういうものも、一義的に定義することができないのが、私の病だよ。物体の存在ではなく、不在によって骨組みされ、空洞を抱えて生きる。キャラクター、性分、特性、個性というような性質じゃない。私という存在がどれだけ空間を満たし、質量を有し、定量的に観察されるかが重要なんだ。誰かにとっての私ではなく、世界にとっての私でありたいと思うんだ」
緻里に言雅の哲学的記述は理解できなかった。でも、言雅の言葉がなんとなく心地よいことは感じていた。「君は」という緻里への呼称は、なんとなく懐かしく、現実から少し遊離した、言葉遊び以上の好意を感じられた。
「それは孤独ということですか?」
「厳密には違う。一人であるにはあるけれど独りではない。一人暮らしは一人だが、孤独であるかはその人の人間関係によるだろう?」
「ちなみに、言雅さんは孤独なんですか?」
「一人ではあるよ。孤独かどうかは主観的に決めてもいいのかな?」
緻里は手を伸ばして掴もうとした駒から手を引いた。言雅から投げかけられた質問は、あまりにナイーブで、答えづらいものだった。
「僕たちが言語ゲームをしている場合、孤独は主観的に定義できると思います。言語は情報で、そこにはルールがあるはずですから」
「でも?」
「でも、言雅さんと僕は、言語ゲームをしているわけではありません。交わされているのは情報だけではなく、好意や感動、個人の歴史や知識の枠組み、それに『食べ物としての言葉』を交換し分け合っている」
「君は学識があるねぇ」
「自分の話す言語が全て主観的な人を、僕は人間と呼ばないですよ」
言雅はくふっと笑った。
「そういえば、私のカバンの中にはクッキーが入っていたんだ、君も食べるだろう? お茶菓子にしよう」
ノックの音がして先生が研究室のロックを開けた。
「おや、みなさんお揃いで」
「みなさんって、先生。二人しかいませんが」
「二人いれば戦力としては十分。午前中から研究室にいる。チェスね」
「先生とはしません」
「言雅さん、小学五年生みたいなことを言わない」
「私の精神年齢を不当に低く見積もらないでください。高一くらいはあります」
「結構。論文の発表今日でしたよね。よければ緻里くんも参加されるといい」
「じゃあクッキーはその時に」
大きなカバンからクッキー(それも少し高級そうなもの)を取り出してテーブルの上に置いた。言雅はチェス盤を片づけ、用意していた資料をコピーし、人数分席に配置した。
ポツポツと研究生が入室し、資料を斜め読みしながら、時折会話がなされる。
手持ち無沙汰に資料をめくっては、周囲の様子を窺う緻里を、言雅は微笑ましく眺めていた。
風が吹き込んで緻里の手元の資料を飛ばす。研究生の一人がそれをつかまえる。緻里は礼を言って窓を閉めた。
「カーテンもお願い」
部屋の明かりは落とされ、外から漏れる白光がカーテンを四角く縁取りする。
プレゼンテーションのスライドがスクリーンに投影される。
言雅はゆっくり話し始める。
最初はボソボソと「福田恆存」の紹介をする。資料に沿って、テーマに沿って。でも途中から個人的な思い入れが差し挟まれ、声は透き通り、力を帯び始める。
何が孤独なのだろう。何が主観なのだろう。こんなふうに発表を楽しんでいる人が、孤独なはずはなく、主観の狭間で動けないなんてこと、あるはずがない。同じ課題、同じ疑問があったとしても、真似ただけでは同じように深められない。
文藝を極めることに対する憧憬、その憧憬を緻里はさらに憧憬する。
知に対する欲動を抑えきれない。
「オーセンティックともコンサバティブとも言い切れない、宙吊りになった福田恆存は、実際に宙吊りになったわけではありません。主義というわかりやすいものを標榜するのではなく、現実の文学、現実の戯曲、現実の表現を一つ一つ明らかにしていった。それしか文學にできることはない。それのみが、世界を成立させている文學という虚構の、現実的な側面、いわば骨組みを、確かたらしめる。中に何が入っていようと、文學を成立させている言葉に、適切な価値を置き、評価する。主義ではないのです。思潮でも思想でもない。それは文學における基礎の探究だと、私は考えます。宙吊りになっているように見える福田恆存は、私たちがあまりに単純化された世界に生きていることを、憂うに違いありません。微細で微妙な事柄を扱うことで、私たちの周囲に立ち込めている深刻な問題の本質を突いている。では、文學とは一体、何なのでしょうか」