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八十九章《座標》

「制約の言語回路」八十九章《座標》


「座学はしない」


 日々繰り返される演習の中、緻里は道綾にボソリと言った。


「少佐なら、そうおっしゃると思っていました」


 道綾はうなずいた。それを漏れ聞いた新米たちは、落胆した。理論や経験を聞きたい思いと、過酷な演習でボコボコにされる時間を少しでも短くしたい祈りが、ついえた瞬間だった。


 狭い了見で、チャンバラをするように訓練していた新米たちに、降ってきたアイデンティティ・クライシス。


 今まで自分たちは有能だと思い込んできた中で、ベテランに槌で叩かれる痛みは、さぞやというもの。


 悔しい以前に不可解だった。


 緻里の強さが測れないから。


 そしてたまに食堂で内緒話する上官たちの、闊達な大陸語を聞くと、知的な面でも差を感じてしまう。


 緻里も道綾も、大きな声で大陸語を話す。若い頃に留学した二人だから、ほとんど随意的にコミュニケーションができる。


 それが、新米たちの意識を変えていった。


 大学中心の図書館に、緻里が久しぶりに足を運ぶと、夜だったが迷炎が大陸語の勉強をしているのが見えた。


 偶然のことで、見るつもりもなかったが、緻里は嬉しいと感じた。


 緻里の立ち位置は、どこか矛盾しているように、新米たちには感じられただろう。大陸の影響を受けている人が、島国を守るのは矛盾していると。


 そういう矛盾は、簡単な二項対立がもたらしたバイアスで、複雑な機微を表現するには及ばない、浅薄な知見だった。


 複雑なことに人は耐えられない。閾値を超えたものを飲み込めない。だから、わざわざ座学をしてやるまでもないのだ。


 人に教わるのではなく、自ら学んだものにしか、本当の知は訪れない。


 緻里の知は、殺すために身につけたものではない。知そのもののため、よろこびのために身につけたものだった。


***


 夕辺少将と会食する機会があった。


 法学部の教授と聞いていたから、さぞや格式ばった人なのだろうと心構えをしていたが、その通りだった。


「少佐は、今後の大陸との戦いをどう見ている?」


「物量も人員も技術も負けています。国を明け渡すしかないでしょう」


「負けている? どうしてそう思う?」


「尺度が精確でないまま、議論するのは無駄骨です。新兵を見ればわかります。この狭い島国の中で、一定の成績を取ることに血道を上げて、満足する。彼らには不満があります」


「少佐は筋金入りのエリートだな」


「自負があります」


 夕辺は笑った。記号と意味が交互に表面に上がってくる。


「でも、そういう大学中心の学生のような自称進学校めいた人材が、一番伸びるだろう」


「それはまさしく」


「道綾少尉からも、今度話を聞いてみたい。本当に負けているのかね? と。少佐は忠臣だな」


「それはなぜですか?」


「威勢のいい奴ばかり見てきた。そしてそいつらはすぐに死んだ。慎重であるのはいいことだ。ところで、島国には何が足りないと思う?」


「文学でしょうか」


「それは何の冗談だ?」


「過去も現在も未来も、見取り図を誰も描かない。空っぽの器を眺めているようです。死んでいる」


 夕辺は意味をつかみ損ねたようだった。


「この島国が、空っぽの器、か?」


「少将は、なぜこの国が戦争をしているのか、ご存知ですか?」


「大義がないと?」


「殺したいだけなんですよ。心をくくる物語がないから、暴走しているのですよ」


「文学講義はいい。貴君は大した理論家だ。それは、何の、冗談、だ?」


 夕辺は語調に比して、意外にも柔らかな表情を浮かべていた。笑いを堪えていると言われればそんな気もするし、激昂する前触れと言われたら、それも納得できた。


「冗談や嘘や、虚構に聞こえるとしたら、それが最も効果があったことの証左です」


「寄せるな。こちらにきて答えてみろ」


「最初に言いました。それでは負ける、これでは負ける、と」


「吹子で火に酸素を供給するのが得意と見える」


「恐縮です」


「少佐の気持ちはよくわかる。子飼いが可愛いのだろう?」


「強さは美徳です。少なくとも誰かを助けられるのだから」


「浪漫派の騎士のようだ。話せてよかった」


「少将は本心の垣間見さえお許しにならない」


「それが将官であり、……本心などない機械なのかもしれない。少佐は冷血など理解できないという顔で……」


 口元だけ笑みを見せて、夕辺は目で緻里を射抜く。アンビバレントなのが夕辺なのだと、何となく理解する。


 夕辺の矛盾と二律背反の心理は、とても人間らしいと、緻里は思った。


***


 大学の授業を受けるため、何人かの新米が演習を休んだ。


「自分も休みたかったなぁ、という顔をしている」


「とんでもありません」


 その言葉は、覇気を帯び、嘘ではないようだった。新米から新兵へと呼称を変える、いい機会かもしれない。


 珍しく乾いた天気だった。


「今日は風だけだ」


 演習場の地面から砂埃が吹き上がる。


「悪天候の中でも砂は、最もやりにくい。道綾少尉など、ほら見てみるといい、風で全く受け付けない」


 道綾はふんわりと浮くと、砂埃から遠ざかろうとする。


「ところで、視界も霞む、こういうフィールドで、どう戦うのが正解だと思う?」


 緻里は珍しく問いかける。


 砂がまとわりつき口を開くのも億劫。手を挙げたのは迷炎だった。


「見ないのはどうでしょう?」


 周りは大声を上げて笑った。


「すごい」


 思わず道綾が言った。


「もう少し具体的に言ってもらえるかな?」


「座標計算をする必要があると思います」


 周りはハテナと首を傾げた。それは、マンガの世界の話では? と。


「すごいすごいすごい」


 道綾はつぶやく。声のボリュームは感嘆を乗せていた。


「目をつぶって」


「はい」


「道綾少尉の座標を思い浮かべて」


「はい」


「3、2、1」


「え? 私ですか?」


「ついでに追尾もつけて、シュート!」


 迷炎は撃った。魔法攻撃はミサイルのように道綾を追った。


 風を切り上昇する道綾に、光跡はぶれながらも追いすがる。


「ふわりと」


 という言葉に反して、道綾は本気で出力する。風の束が、風圧の壁になった。


 光が弾ける。


「複数の機動計算は準備できてる?」


「はい!」


「三つからいこうか、シュート!」


 三つの光跡が、自信を持って道綾を追いかけた。


「なんてこと。バラバラに追いかけてくる」


(道綾少尉が、堕ちる?)

(キター、迷炎すげぇ)


 ゴウと音が鳴った。竜巻の障壁が道綾を包む。砂埃が舞い視界は限りなく細切れになる。風壁に阻まれはしたものの、迷炎は頭一つ抜けたことを第十二特別小隊の面々に知らしめた。


 ゴロゴロと天空が轟いた。細かい砂粒を核として、凝結した雨粒が落ちてきた。


 パラパラと空気を沈静させる。緻里の雨は穏やかで優しかった。


 緻里は不意に、言雅とやり合った時の天気を思い出した。大学生だった時、荒んだ心を発散させることで落ち着かせてくれた、年上の女性のこと。あの時の言雅の表情がどうやっても思い出せない。呆れられ、諦められたのだ。緻里は頑固だったから。


 砂埃は落ち着き、緻里と道綾は風で傘を作った。


「砂を噛んだ口をすすぎたいか?」


「できたらそうしたいです」


 迷炎が答えた。


「では、迷炎くんの発表に敬意を表して、15分の自由時間としようか」


 拍手が湧く。


「ようやく、第一歩ですね」


 道綾が緻里に声をかけた。


「算数から数学へ」


「その例えは秀逸に思えます」


 窓架が道綾に視線をよこす。道綾が笑顔を見せると、あわあわと目線を散らしながら、意を決してこちらに来た。


「少佐と少尉は、その、どこかでお知り合いだったのですか?」


「合同演習で。大陸系の術式を教えてもらったの」


 道綾はニコリとしながら言った。


「優秀な前衛だよ」


 緻里も笑った。


「大陸の術式はどこで学んだのでしょうか?」


「僕は大陸で。大陸の高校に留学していた時に」


「風雨についてはどうなのでしょう?」


「僕のは遺伝だよ。父親が風で、母親が雷の使い手だった。こんなことを聞いて、何かあるのかな?」


「いえ、なんとなく気になって」


「いいことだ。好奇心は忘れないようにね。好奇心は猫を殺すけど、人は助ける。術式に興味があるなら、道綾少尉に教わるといい。きっといい先生になる」

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