八十七章《演習》
「制約の言語回路」八十七章《演習》
緻里は飾絵や汽子、茶余を育成し、ともに大陸語の真髄を研究した。
第一学府への出向期間が満了となり、言情研を離れる運びとなった時、教え子たちは皆それを残念がった。
特任としての緻里の学術的成果は、膨大とまでは言わなくても、十分すぎるほどあったから、そのまま専任講師に着任してもよさそうに思われた。辰柿局長もそれを望んでいた。
「軍人なんて」と、辰柿は酒の席で言った。
「だからですよ」
緻里の言葉が意味していることを、辰柿は心情的に受け入れられなかった。
「幸せに生きて、いいだろうに」
「前線の一人の幸せに、命をかけるだけです」
「何人倒し、何人助けるつもりだ?」
「数えるべきでしょうか?」
「君には小さいことのように思えるのかな。助けられた人は、君を忘れない」
「殺した数は、忘れません」
「今度は教えた数も覚えておくといい」
***
「異動になった」
「そうどすか」
紫の怒っている時の京言葉だった。タイミング悪く彼女が料理をしている時で、苛立ちが包丁さばきに表れている。さくさくではなくザクザク、トントントンではなくドンドンドン。
「単身赴任ということですか?」
「行き先は戦場だから」
「はあ。わたくし憤ろしいですよ。何がって、単純に弱い女として、好きな人のそばを離れることに、つらみを感じているんですから。ほら、男にはあれですよね、大義、みたいなのがあるんですよね。尊敬します」
言い切り方に尊敬のかけらもない。こちらを見ることもない。
「まあ、それがつらみなら、まだ僕の面目も立つけど」
「死なないですよね」
「包丁を向けないで」
「すみません」
「死なないよ」
「ならいいです。待ってますから」
西国風味のお吸い物、毎日作ってくれるそれが、もうしばらく飲めないのは、残念なことだった。
付き合って緩んだのか、少し肉をつけた紫の体に触れる。肩に手を回し、唇を固定し口をつける。
子供ができたら、思うことも違うのかもしれない。紫を置いて死んでも、緻里は悔しくない。そういう人生だと割り切るし、きっと紫も吹っ切れるだろう。
結局結婚しなかった。それはこの日のことを考えたから。結婚していたら紫が可哀想だ。美人なのだから、また誰かとうまくいくだろう。
そしてそういうのは、男の勝手なんだろう。
赴任先は海都。この数年の間に軍の大学校も兼ねることになった大学中心に着任する。文学部の准教授という職位もついでにもらった。
発令と同時に、見た上官。
夕辺法学部教授・少将。彼が司令官ということらしい。
果枝工学部准教授・中佐。システムを司る女性。
部下には道綾がいた。道綾少尉は、故南で大陸語を学び、また風の異能を持つ有能な幹部候補生。緻里とは演習を通じて顔見知りだった。
チャットで道綾に挨拶すると、彼女からも挨拶が返ってきた。
「楽しみです。本当に」
***
島国の大学では序列第三位、大陸に面する島国の裏側に位置する大学中心。緻里の母校でもあった。
軍事施設が拡充され、学生は一部予備役として扱われる制度もあり、軍への参与には学費の減免など、軍学が接近したつくりになっていた。
その礎になったのは、緻里の学生時代の八面六臂の活躍だった。
今の学生の中でも、軍に深くのめり込んでいるものは何人もいた。
工学部は果枝准教授のもと、実力を発揮する場所として、軍産複合の研究所と化していた。
果枝中佐は間違いなく最も重要な人材の一人だった。主要な研究、主にシールドに関するものは、果枝中佐のチームが驚きのブレイクスルーをもたらし、対空戦闘戦績は改善というどころではなかった。
だがある意味で、テクノクラートの支配でもあった。
大学中心は鉄壁の盾を持っていた。だから、今度は槍を欲したのだ。
緻里は副官に道綾を迎え、異能を有する特別遊撃部隊「第十二特別小隊」の長に着任した。
部下は20人ばかり。およそ異能を持つ人口の、何パーセントかを託された。
皆若く、自信に満ちていた。
訓練も、寮も、母艦も、食事も、飲み会も、何もかもが彼ら彼女らと一緒だった。
***
「最初の演習だ。諸君。諸君か。あんまりそういう言葉遣いをしたことはないな。今回の演習では、みなさんが日々発揮したいと思ってうずうずしている異能を無制限に使ってもらう。私は少佐でこの遊撃部隊のリーダーになる緻里だ。風と雨を操る異能を持つ。副官の道綾少尉には私のサポートに回ってもらう。およそ20人のみなさんを倒したくてたまらないとさっき道綾少尉から聞いた。わたしも同じ気持ちだ。私に、参った、と言わせてみろ。では散開」
緻里は遠く高く空を飛んだ。その速さに新米は呆気に取られる。
新米と緻里の中間に、道綾は位置取りする。
飛べるものはなんとかして飛ぶ。唯菜は道綾を避けて緻里へと接近を図る。なかなかの上昇スピード。
緻里は唯菜の動きを制限しようと動く道綾を制した。術式で伝える、「僕がやる」と。
「唯菜さん」
「はい!」
「本気でね」
天候が変わった。
海上にあった雲が、もくもくと切り立つ。
「風、強くないですか?」
道綾が術式で文句を言う。「人の風に乗るのは大変なんですけど」
「じゃあ僕は雨だけでいくよ」
ポツポツと雨が降る。
唯菜が編んだ魔法術式「光撃」を反術式で片端から解体していき、ガス欠かのように動かない魔法術式に唯菜は焦り、あたふたする。
雨が、唯菜の服に染み入る。
それだけなのに気づいたら、唯菜は動けなくなっていた。
「え、え、え?」
緻里は唯菜の肩にポンと手を置く。
「脱落」
飛ぶ魔法も解体され、「撃墜」された。
「誰か受け止めてあげて」
それだけでやばさが伝わってくる。
唯菜は堕ちると、周囲の新米にパクパクと緻里の凄さを伝えようとして、結局何されたのかわからないと言って笑われた。
緻里が召集されるまでは、彼ら彼女らの異能部隊は、自負と慢心ではち切れんばかりだった。だから、不意に現れた緻里の実力を、かなり低めに見積もっていた。
撃墜数も多い頼土と我心のコンビが上昇する。
魔法術式で浮くのは、最近の流行りだった。異能の発現として魔法が使えるようになるのは、ここ十年のトレンドで、緻里の頃のような異能のヴァリエーションは、若い人にはあまり見えなくなっていた。
魔法ならば体系的に技術を伝えられることもあり、飛行魔法となんらかの攻撃魔法、およびシールド魔法を組み合わせて、出力勝負を仕掛けるのが主流になっていた。
緻里の解析術式と術式への働きかけの速さは、大陸で研鑽を積んだこともあり、コンマ数秒で完了する。新米の攻撃魔法を解体することなんか造作もない。
「どれくらいの強さなんだろう」
雄叫びをあげて、頼土と我心は砲撃する。
バチッと音がして閃光が走った。
精密な落雷操作で魔法攻撃に対して出力で相殺する。
ピシャンと音がして、後から雷鳴が聞こえた。
光に視界を奪われた二人の肩に、緻里の手が置かれた。
「脱落、でも咄嗟にシールドを張ってる。偉いね。……本能かな?」
スタンガンのような電流が走り、二人は意識を失った。
「受け止めたげて」
「強すぎる……」
「諦めるのかい?」
「て、手分けしていくぞ、長距離系は遠距離から緻里少佐を、強化系は道綾少尉を撃ち落とす」
「「「応!」」」
雨に忍び込ませられた術式の種が、新米の魔法術式展開にバグを発生させる。
上昇に支障をきたした新米は、闇雲に長距離砲を撃とうとする。
「計算式が書き換えられてるぞ!」
誰かが叫んだ。
「バカな!? どうやって」
「雨だ、この雨が、がが」
「聡いね。名前は?」
いつのまにか降りていた緻里は、バグの混入に気づいた迷炎の肩を叩く。
「迷炎と申します。小生肉弾戦にも少し自信が」
迷炎の腹に手があてがわれる。瞬間数十メートル吹き飛んだ。
「折れてたらごめん。受け止めてあげて」
迷炎は意識を失っていた。
窓架は練習刀を持って、そこに魔力を注入し、道綾に切りかかる。
炎のエフェクトがかかりそうなくらい、エネルギーに満ちていた。それがふんわり風でいなされる。注意の範囲外から接近した新米たちにも、後ろに目がついているかのように風撃をお見舞いする。道綾に死角はなかった。
遠くから道綾を見るものは、その惚れ惚れするほど美しい演舞に心を奪われる。体術を習得した者の、隙のない動き。
格闘ゲームの女キャラのように声を張って呼吸を整える。
シールドは、術式で中和してもよかったが、道綾の好みは破砕だった。対魔法用のシールドは、物理攻撃には滅法弱く、全く抵抗なくシールドは破砕された。
自慢の無敵バリアーが破壊される。それは新米には衝撃だった。
気づいたら気絶して倒れている新米ばかりで、死屍累々の様相を呈していた。
突撃玉砕していく新米は、皆ボコボコにされて倒れ伏す。
最後の一人になった千歳は震え上がり、腰を抜かし、尻をついていた。




