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八十六章《香り》

「制約の言語回路」八十六章《香り》


「僕たちは緋津高校のピクニック部で」


 部長という肩書きの学永がくえいは、ぺこりと頭を下げた。


「どうも」


 汽子は男には全く興味がないというように、ちらりと女子の方を見た。「失格。可愛くない」とまではさすがに言わないが、心の中で失望する。


 それは歌蒋にはお見通しらしく、「やれやれ」と嘆く。


「学永さん、高二ですか?」


「そうです、同い年、ですか?」


「ここの年増は部外者とすると、今、この場所を構成しているのはおよそ高校生」


 何も気にしないというように、汽子はニコニコしていた。


 ピクニック部は三人。学永が二年生で、ほかの二人は一年生らしい。男の方は奏耶そうや、女子は娘鐘こがね


「お二人は、今日は」


「ピクニック。おにぎり食べて帰るつもりだったんだけど」


「僕らもそうっすよ」


 学永は、緊張からか声が裏返った。


 緋津高校という高校を、汽子は知らないだろうなー、と、能天気な顔でニコニコしている汽子を、うすら冷ややかに歌蒋は見つめた。


「どうしたの、高校生?」


「なんでもない」


「お二人は、付き合ってるんですか?」


 娘鐘は、一も二もなく突進してきた。


「タバコ吸っていい?」


 間抜けな間だった。噛み合わない。そもそも汽子に噛み合う人なんて、綾衣くらいしかこの世に存在しない。凡百に上手は取れない。


 ぱくぱくあわあわと、自分が聞いたことで気を悪くさせたのかと、娘鐘はシュンとしていた。


「高校生、っていうとみなさんを指すことになるのか。面倒だな、ぁ? 歌蒋は、私の恋人なのか?」


「ふた月に一度こうやってデートする。それを付き合っているとは、思わないけど」


「ふぅん? でも、私がデートする男は、君だけだよ。中高では《先輩》と後ろにつけてくれたのに、今は《姐》、砕けたもんだな」


 汽子はスッと立つと、シンクの端に置かれていた灰皿に手を伸ばした。


「灰皿があるってことは使っていいってこと。ここは禁煙ではないようだね。ごめんよ、娘鐘さんは明らかにタバコが嫌いという顔をしている。すまないね」


「大学生なんですか?」


「そういう質問の先にある話題が何か知っているか?」


 娘鐘はビクッとした。首を振る。


「どこなんですか? 高校は? そうなんですか、私はほにゃらら、へえー、そこどこですか? ほにゃほにゃ。……緋津高校を知らないのは野蛮とでも言いたげな顔だ。…………大学生だよ。今二年生」


 言葉の水位の高低で、緋津高校の目方を測るのだから、汽子の文脈推理は、娘鐘を透かすほどだった。これでは何も言えない。


「トランプでもどうです?」


 寡黙な奏耶がボソリといった。「そういう話は、トランプでもやりながらの方が、きっと楽しいですよ」


「大富豪のローカルルールは、緋津高校だと?」


 歌蒋が奏耶に聞いた。


「スペ3返し、7渡し、8切、10捨て、11バック、8と2とジョーカー上がりはなし、革命あり」


「5飛びは?」


「あり、忘れてました」


 淡々と奏耶は答える。


「こっちと全然変わらない」


「高校どこなんですか?」


 娘鐘が勝負を仕掛けてきた。緋津の偏差値は65。確率的に自信がある。


「冷英中高」


 冷英中高の偏差値は73。


「トランプの前に負けちゃったじゃん。何やってんだよ娘鐘さん」


 茶化し方が上品で、汽子は奏耶に一目置いた。


「汽子さんも冷英なんですか?」


「中高はね」


 汽子はタバコをふかす。


「ほらほら、部長も。先方学歴厨ホイホイなんですから。わかんないんですか? 雰囲気は、どう考えても第一学府ですよ」


 奏耶は、手際よくカードをカットし、配る。


「どうしてわかるんだ?」


「親戚の第一学府の人の話し方と一緒でしたから」


 ニコリともせず配り終える。


「ダイヤの3から」


「私だ」


 汽子がカードを切る。


 学永部長と娘鐘はかなり驚いて、言葉を失う。


「ということは、奏耶くんは第一学府を狙っているのか?」


 ゲームを流しながら、汽子は聞いた。


「緋津からは数人です」


「数人でも入るんだろ?」


「そうです」


「奏耶くんは、行けそうだし、なんなら浪人すれば間違いないな。後輩は手懐けておくに限る」


 ぽとりと灰を灰皿に落とした。


 雨はざあざあと降り、ロッジの窓を叩く。


「まるでバカみたいな人はバカだって言われているみたい」


 娘鐘が「スペードの2」を出した。


「聞かなきゃよかった?」


 汽子は娘鐘の気持ちを逆撫でする。


「別に」


***


 大富豪になったのは奏耶だった。大貧民は汽子。


 汽子がカードを切り、配る。


 学永は几帳面に記録をつけ始めた。


 革命が起こり、奏耶は大富豪の地位を追われ、娘鐘が大富豪に成り上がる。娘鐘はとても嬉しそうだった。


 それからずっと、娘鐘は勝ち続けた。


 計五回の勝負で、順位で点数をつけた合計が一番高かったのは、娘鐘だった。


「さすがピクニック部だな」


「関係あります?」


 娘鐘と汽子は、わずかな時間で犬猿の仲になった。


「冷英だから、大富豪が強いなんてこと、ないですよね?」


 学永が歌蒋に聞いた。


「さあ、どうかな。結果が全てだと思うけど、結果が出るまで百戦くらい必要かもな」


「そろそろ雨も止んだか」


 陽の落ちかけた外を見て、汽子は言った。


 ロッジの中にいると時間が経つのを忘れる。


 タバコの灰皿から灰を、持っていた紙に包み、軽く水で灰皿をゆすいだ。粗野な感じのする汽子だが、そういうところはそつがない。


「勝ちたかった? 汽子姐」


「まさか。ゲームだぞ?」


「悔しそうだから」


「どこが。禍根が残らなくて安心しているよ」


 雨雲の後にほのかに夕焼けが赤くにじみ、汽子と歌蒋は山を降りた。


 霊連山の麓、コインロッカーに置いたトートバッグの中の、街場用の服に着替えて、荷物の少なくなった登山用のリュックサックをたたみ、トートバッグに集約する。


 真珠市までがたがたと電車に揺られ、またコインロッカーに荷物をぶち込むと、汽子は真珠市繁華街の居酒屋に歌蒋を連れ込んだ。


***


 綾衣が、地元の真珠市七番の店を知り尽くしているのは、その場所が彼女を育て上げたから。


 汽子にはそういうところが全くない。


 彼女は、気が変わらなければ、同じ店に行く。店員に、存在を知らしめるのに特別なことは必要ない。汽子が島国にあって、群を抜いて高邁な精神を有していることは、声や言葉、容姿や化粧、持ち物や隣にいる人を見聞きすればすぐわかる。

 誰からもというわけではないけれど、自信のある男が、一度は挑戦してみたい美貌だった。


 卓を挟んで、歌蒋と二人。店員とは名前と顔を覚えているし、親しげに話したりもする。


「汽子さん今日は何から?」


「ビール。歌蒋には烏龍茶を。あと私に灰皿を」


「彼氏っすか?」


「とても可愛い後輩」


「後輩さんも大変っすね、先輩が美人すぎるってのは」


「さあ?」


 歌蒋は店員にサービスはしない。


 地鶏の炭焼きとチキン南蛮を卓の真ん中に置き、歌蒋は白米と一緒に頬張った。


 焼酎のロックをからんと飲み干し、汽子はさらに酒を加えた。


 とろんとした目で見つめられると、歌蒋はどうしようもなくドキドキした。舌で唇を舐める仕草に、誘われているのかと思う。猫みたいだ。


 タバコとアルコールの匂いが、やがて腐乱してきて、歌蒋の体に移りまとわりつく。


 歌蒋がトイレから帰ってくると、汽子はまるで白百合のような楚々とした顔で、氷水を飲んでいた。


 揮発する液体が運ぶ汽子の香りは、タバコの芳醇とアルコールのほの酔いが混ざってなぜか、白梅を呈していた。


「帰る?」


「汽子姐、酔ってる?」


「そんな期待すんなよ、酔ってる。うち来るか? 可愛がってやるよ」


「別に、可愛がってもらえなくて結構だ」


「強がるなって。一生の自慢を授けてやるよ」


「ここで断れば、名誉だし」


「なぁにが、名誉だよ。私酔ってないぜ」


「さっきと言ってることが違う」


「舞台に上がれるのは、一握りの人だけ。私の向かいに座っているんだ。もっと欲張りになれよ」


 周囲の人の動きは線になり、光は二つ、強いものは汽子を照らし、弱いものは歌蒋を照らした。本当に照らしているように見えた。綺麗な白い花が、ふわりと咲いているように。

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