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八十五章《歌蒋》

「制約の言語回路」八十五章《歌蒋》


 茶余が食堂で並んでいると、おや、と声をかけられた。


 汽子だった。


 汽子は一人で、茶余も一人だったから、二人は一緒に食事をする運びになった。


 汽子は小鉢をたくさんと白米に豚汁。


 茶余はケバブライスとデザート。


「茶余さんは彼氏、いないのか?」


 汽子はそっけなさを装って聞いた。


「汽子さんは?」


「私は、女の子の方が好きだ」


「でも私は好みじゃない」


「そんな失礼なこと言わないさ、でも今、私は飾絵くんの奥様にゾッコンでね」


「ずいぶん古い言い回しですね、ゾッコン? あんまり聞かない。この前綾衣さんに会いましたよ。汽子さんでも、なかなか攻略は難しいんですか?」


 汽子はくつくつと笑った。


「私はあんまり誇らないが、彼女の唇を奪った時の快感は、飾絵くんには言えないな」


「綾衣さん、怒らなかったですか?」


「どうだったかな。でも彼女は、私の唇を別カウントしているんじゃないかな。いつも朗らかだ」


「女だから」


「?」


「いや、そうじゃないですか? いちいち男に義理立ててらんないでしょ? 天然って感じの人でしたけど、女なんじゃないですか?」


「茶余さんは、綾衣が私とキスした一方で飾絵とキスする時の、罪悪感のことを言っているのか?」


「そうです。その話かと思っていました」


 ケバブライスをもきゅもきゅと食べながら、茶余はうなずいた。


「それはさながらサガンだね」


「フランス帰りって言いましたけど、私、サガンは読んでいません。奔放になってみたいものですけど。サガンさながらに」


 汽子はくつくつと笑った。矛盾を感じたわけではなく、嘘に反応したわけでもなかった。


「汽子さん、彼氏いますよね?」


「確信度は何パー?」


「その聞き方で100%です」


「中学の頃からふた月に一度会ってる年下の男の子がいるよ。彼氏? 別に男に興味はないんだけどな」


「それはスタンスじゃなくて擬態じゃないですか?」


 茶余の指摘に汽子は少し考えた。


「擬態というか、男が怖いだけですよね」


「……そうかもしれない」


 熱量を落として汽子はうなずいた。「よく手紙を書くんだ。返事もある。可愛い子だよ。でも」


「でも、好きにはなれないってことですか?」


 否定ではなく自分の不甲斐なさを嘆くように、汽子は首を振った。


***


 最近、汽子は山に登るのが好きになった。


 彼女は、その男の子と山に登った。


 歌蒋かしょうというのが、三歳離れた彼女の恋人だった。


 大陸と半島のハーフで、戦争が始まる前に、島国に帰化した。


 大陸語と半島語を話すことができ、堪能な語学的才能は、そのほかの外国語の学習を容易にした。


 冷英中高で汽子と知り合い、それからずっと付き合っている。


 都会を歩くのは、彼も汽子も好きだが、途中からそれも飽きて、試みに山に登ってみたら、それが殊の外楽しかった。


 中学生の頃は敬語を使っていた歌蒋も、途中からだんだん砕けてきて、今はもう同い年同然に会話する。


 冷英は彼にとって、排外思想からのシェルターであり、冷英で彼は島国の人間であることを強要されることはなかった。


 今日もまた山に登る。


 霊連山という1000メートルそこそこの山。島国の高地、避暑地でもあった。


 くっきりとした山肌と、蒼穹の空に刷毛で引いたような白い雲。紅葉の季節でないのが、逆によかった。山肌は濃紺に灰を混ぜたような銀色だった。


 汽子の喉の渇きを潤す仕草が写真に撮られた。


「何を撮っているんだ」


「汽子姐の喉」


「筋が浮いて、さながら年増だろう? なぁ、高校生」


「そりゃ同級生と比べたらね」


 その否定的な文句に対して、なぜか汽子は満足そうに息を吹いた。ふっ、と。


 風が吹いて、二人の頬を撫でる。


 首にかけたカメラで歌蒋は風の通り道を追いかけるように空を撮る。


 わずかに標高が高いだけなのに、風は冷たく、空気は清澄だった。雲が山肌に陰影を作り、二人は影の中に入って、また出た。


 汽子は歩きながらタバコをくわえた。


 かしゃりと、歌蒋は汽子を写真に撮る。


「タバコを吸っている写真なんて、もう200枚くらいあるんじゃないか?」


「いつも様になっていて、かなり悔しい」


「高校生は吸わないからな。反面教師。それもまたいいけど」


「汽子姐、俺のこと高校生っていうの、そろそろやめない?」


「君は高校生じゃないか」


「君は、っていうのもさ」


 汽子はくつくつと笑った。


「歌蒋は、やはり高校生らしいな」


「どうして?」


「手を繋ぐとか、キスするとか、呼び方とかに意味があるって思ってんだろ? まあ、確かに意味はある。でも、こだわるほど意味はないぜ」


「意味はあるだろ」


「ないね、気にしすぎだ」


 汽子はタバコを美味しそうに吸った。


「でも、歌蒋がそういうふうに可愛いことを言うのは、私的には美味しすぎる。たまらない」


「そういうのは、心の中で留めておいてほしい。今度から可愛く振る舞えない」


「歌蒋。君は語学は堪能だが、文学というものを知らない」


「そういう言い方、年上だからって。……まったく」


「あるいは、大陸史を知ったかぶりして、冊封体制の話をすると、大抵浅瀬に乗り上げるぞ」


 ぞくりとするほど冷たい目線。薄く開いた細い目が、大和撫子の白く柔らかい肌に視線を引っ張る。


 悔しいが汽子は綺麗だった。


「汽子姐は、歴史が好き」


「文学も、語学も、数学だって好きだ」


「俺のことも好き」


「ははは、そうだな。私は、嫌いな人の隣に二秒といることはない」


 足を止めることはない。目の前の岩に手をかけて登る。


 沢ではサンダルに履き替えて、ひんやりとした流水に足を浸す。少し大きな沢そばの岩に腰かけて、おにぎりを食む。


 ふもとで買った缶ビールを、流水につけて冷やす。カシュっと開けて、汽子はゴクゴクと呑む。


 ぷはぁ、と声を漏らす。


「高校生、君も呑むか?」


「脳が萎縮する。年増専用だ」


「高校生もしばらくしたら、いやでも年増になるさ」


 しばらくまた登った。


 空を見上げると雷が遠くで鳴った。ポツポツと頬に雨粒が当たる。リュックサックの中に入れた雨合羽を着る。すぐに大雨になった。


 沢から一目散に遠ざかり、しばらく木々の下で梢に触れる雨音を聴いていた。コンサートを傾聴するように、二人はほとんど話さなかった。


 鹿が顔を見せた。


 汽子がお菓子を放ってやると、美味しかったらしく、満足そうに場を後にした。雨はやまなかった。


 二人は上流方向へ歩き出した。


 焦ったりする二人ではなかった。下流へ歩き続けるのも手だったが、いつ沢に阻まれるかわからない。


 しばらく登ると、小さなロッジがあった。


 雨は強く降っていた。


「霊連山ロッジ、山頂まで400メートル。ふん、親切だな」


「先客がいるみたい」


 歌蒋が言った。キイィと扉を開ける。


「こんにちは」


 先客は、びっくりしたようにこちらを向いた。


「こん、にちは」


「デカメロンみたいにならないといいな」


「汽子姐は歓迎なんでは?」


「高校生、私は淑女だぞ?」


「後輩女子はみんな、汽子姐に唇を奪われたことを自慢してますよ、淑女? はて?」


「女の唇はやわらけえんだよ」


「キス魔なだけか」


 先客の登山者は、汽子と歌蒋の掛け合いに、度肝を抜かれていた。

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