八十四章《上浜》
「制約の言語回路」八十四章《上浜》
第一都市から電車で40分ばかりの海に、広く大きな人工島がある。
狐号港と呼ばれるその港には、多くの軍艦が停留し、また港の陸地側にはタワーマンションが建っている。
人工島に架かる橋は釈條大橋と呼ばれ、島国ではここにしか見られない片側六車線の道幅を有する。
釈條大橋の中央分離帯には、自動運転の電車が走っている。歩行者はそれを使い狐号港と煉瓦埠頭という人工島以前の古い港を行き来する。
茶余は狐号港のタワーマンションに住んでいる。親はまだフランスにいる。だから一人で広いマンションの一室を管理している。
寧御は煉瓦埠頭に部屋を借りていて、二人は一般教養の授業を重ねながら、お互いの部屋を行き来していた。
第一学府から同じ電車で煉瓦埠頭まで移動し、釈條大橋の電車で茶余はマンションへと帰る。
狐号港は、さながら人種のサラダボウルで、たくさんの言語が行き交っていた。
狐号港で茶余はフランス語を話す機会に事欠かない。島国におけるフランスの行政出先機関でアルバイトをしている。
狐号港と煉瓦埠頭は新旧の都市計画そのもので、一帯を呼ぶ呼称「上浜」を使って「新上浜」「旧上浜」と言い習わす。
いわゆるコスモポリタンな茶余が新上浜に住み、田舎育ちの寧御が旧上浜に住む、その対照性は、わかりやすいと言えばわかりやすい。
同じ第一学府の学生でも、備わった文化資本にはかなりの差がある。でも、それが実力というわけでもない。
***
大きな湖と、田園風景。それが寧御の故郷だった。富情という地名。
上流とは程遠い、素朴な世界。
ダンスが好きで、中高は数々の「踊ってみた」動画を投稿していた。
家は農家であり、また、ちょっと高級なホステルを経営している。かなりの大家族で、若くして結婚している親戚が何人もいる。規模としては50人くらいの大きな親族構成で、耕す田畑は驚くほど広い。
親戚の中には距離的に近い西都大学に行っている人もいる。
「頭が悪くて農業できます?」というのが彼女の家族の口癖で、その言葉通り彼女の親戚たちの富情での地位は、著しく高い。
富情の中高は長閑で、何をしていてもよかった。富情の放課後、課外活動には、広い校庭や、校舎のところどころに設計された建築的庭園が使用された。
富情農工大学という小さな公立大学の附属で、博士号を持っているような先生が教鞭を執る。大学は富情にいる人以外知らないような知名度だが、教育の質は高く、富情はさながら楽園のような学園だった。
人文系の知識は、細々と伝えられているだけで、実学志向の学園だったから、第一学府への入試対策はかなり困難だった。
寧御は、国語や英語こそ散々だったものの、理科や数学で目を見張るほどの点数を叩き出し、普通満遍なく得点できなければ合格しない第一学府の入試に受かった。
彼女は自分のポテンシャルに全く自信を持っていなかったから、入学しても自分は落ちこぼれだと思い込んでいた。
そう思い込んで勉強しているから、メキメキ実力をつけ、理科の生物分野では分厚い教科書を何冊も読破していた。
***
茶余はフランスの大学に行く予定だった。大学受験も終え、友達とタバコを吸いながら、ほどほどに恋愛もした。
茶余はかなり男子受けがよく、島国の柔和なコミュニケーションも、当たりが強いフランス女子のコミュニケーションと比べ評判がいい。
フランスで何年も暮らしているので、「フランス仕込み」のコミュニケーションはもちろん板についている。でも、父親が所有する島国の小説を大量に読んでいるから、理想と考えるコミュニケーションの型は島国製だった。
理路整然と意見を述べることもできるが、意見を述べない言外のコミュニケーションも、自家薬籠中の物としていた。
半歩後ろを歩くように感じさせる茶余の話し方は魅力的で、フランスの男子は一度は口説かずにいられなかった。
フランスは芸術の国であり、哲学の国だった。茶余は入試が終わった時、初めて芸術や哲学が当たり前の空間に疑問を持った。
父親や母親が従事するその専門的な世界に、父親や母親への反発という意味で、距離を取りたかった。
ただ、反発は具体的な形を取らず、茶余は理性的に家族を説得した。
島国への憧憬が抑えきれない、と。
時期的に問題がなかった、第一学府の帰国子女入試を経て、母親と住まいを探し、茶余は島国で一人暮らしを始めた。
明晰に語ることが当たり前の国より、意見から理由が消失した国へ。存在と核心に触れられる国から、不在と虚構の国へ。
あやふやなものをあやふやだと言えるのは、美徳のような気がするというだけで、茶余は移動した。
***
釈條大橋の煉瓦埠頭側の駅、旧上浜の大きなターミナル駅で二人は待ち合わせる。
第一学府まではしばらくの電車道であり、二人は他愛無いことを話す。
寧御は最近踊っている音楽について。茶余は昨日打ち上げられていた花火について。
そろそろ専攻を決める時期で、寧御はなんとなく富情の教員になりたいと考えていて、教育学と生物を専攻するつもりでいた。
茶余は「言語的でない真理」について漠然と考えていて、宗教学と言情研を天秤にかけていた。
勉強の話は全然しない。カバーしている範囲が違うし、二人とも勉強は当たり前なのだ。マウントを取ったりはしない。
そもそも寧御は謙虚だし、茶余は柔和だった。
二人が入っている文芸サークルの読書会では、寧御は「うちは……」とおずおず意見を言う。
茶余はどうしても構造を取りたがって、先輩に茶化される。「これは文学だよ? 哲学じゃないよ」「でも、構造のない文学なんて文学じゃないですよ」「テクストは全て構造を持つってこと?」「そうです」「そんなことないと思うけど」「そうでなければ人に何かを伝えられないですよ」「構造は本質ってこと?」「ううっ……」
先輩のその指摘が、茶余のバイアスを浮き彫りにする。しかしそれが望みでもあるのだ。
「全然モテなくなった」
茶余は笑った。
「うち思うけど、モテるって何?」
「それは文字通りの意味で?」
「そう。現象としての一つの容態に、なんか意味ありますの? これ、うちがモテないって言ってるみたいで悔しいですけど」
歩きながら第一学府のキャンパスを歩いていると、見たことのある後ろ姿があった。
「飾絵さん」
茶余が飾絵を呼んだ。飾絵が振り向く。珍しく一緒に綾衣が歩いていた。綾衣は抱っこ紐で月雪を抱えていた。
「かあいいー、赤ちゃんや」
「飾絵、知り合い?」
「この前学科見学に来た、茶余さんと寧御さん」
「よう覚えてますね」
「いい響きだったから」
飾絵は身を翻して笑った。
「飾絵さん、赤ちゃん? 飾絵さんの?」
「ええ、まあ。珍しいよね、僕若いから。彼女は高校の同期なんだ」
「同期というか妻ですけど」
「お二人とも第一学府なんですか?」
茶余が聞いた。
「そうだよ」
「すご」
「赤ちゃん、何歳なんですか?」
寧御は楽しそうに月雪の頬をつんとする。
「一歳」
「へええー。いいなー」
「デートですか?」
茶余に聞かれて、飾絵はびっくりしていた。
「月雪を大学の託児所に預けてて」
「デートだよ」
綾衣は笑って言った。「最近託児所の存在を知って、ピックアップした後、こうやって一緒に帰るんだ。デートだよ。ホントは図書館で勉強したいけど、それは月雪泣いちゃうもんね」綾衣の少し膨れた頬には、赤みが差していた。
「飾絵先輩は、汽子さんと仲がいいのかと、うち思っとった。あれは既婚者の余裕だったんや」
「寧御さん、不確かなこと言わないでよ。僕は汽子さんとは仲悪くないけど、余裕ぶった事実はないよ」
「飾絵、大丈夫だよ。汽子が気さくなのはよく知っている。寧御さん、なんか匂わせがあった?」
「ちょっと待ってよ、綾衣さん。何もない、何もないよ」
「匂わせ……」
「考えるふりするのやめてくれる?」
茶余はくすくす笑っていた。
「飾絵、焦るのはいいけど、そんなに声大きくしたら、月雪起きちゃうよ」
月雪は深く眠っていた。
「よく見たら、奥さんすごい綺麗。夜やから気づかんかった」
「ホントですね。背高いし、ミスコンとか出るんですか?」
「お褒めに預かり大変光栄、でも、人妻が出たところで」
「いや、人妻だからこそ」
寧御がかぶせる。
「そんな変態さんに票入れられましても」
「僕の立場がないね」
「飾絵はいつも弱いふりをする。動揺しているふりをする。タチ悪い」
綾衣の言葉に茶余はまた笑い声を漏らした。
駅で別れると、上浜までの電車の中で、寧御と茶余は綾衣と月雪の話ばかりしていた。




