八十三章《学科見学》
「制約の言語回路」八十三章《学科見学》
クラハという男性が、緻里を訪れた。
たまたま研究室に居合わせた飾絵に、クラハはとても疲れているように見えた。
発音のいい大陸語で、クラハは緻里に話しかけた。
昔馴染みだと、緻里に紹介された。島国の言葉も堪能だったが、彼は努めて大陸語で話そうとしていた。忘れたくないのだと、ぼそりと緻里にこぼしていた。
雪国が大陸の版図となったのは、随分前のことだった。だから、故郷が雪国なのだと言われて、飾絵は一瞬間を置いた。
「昔は何でも思い通りになった。今は、何も思い通りにならないけれど、それが楽しい気もする。歳をとったよ」
「ただ運が悪いだけだ」
それは励ましなのだろうか。緻里が大陸語でそう言うと、「兄弟、それはなしだぜ」とクラハは返した。
島国らしい雨が降っていた。
研究室に来たクラハに緑茶を用意して、とっておきの羊羹を切って分ける。
クラハの外国訛りのない「ありがとう」に、「いえいえようこそ」と飾絵は言った。
話を聞いていると、クラハは雪国の中で重要な位置を占める人物だということがわかる。するとなぜ大陸語を使うのか、飾絵には疑問だった。敵性語じゃないですか?
クラハは「ハハ」と笑った。「昔から大陸が好きだったんですよ」と。嘘ではないが本当でもないことを言った。
雪国の生まれというのに、クラハの肌は中東の王族のように深いブラウンで、まつ毛が長く、濃密な体香がした。背が小さく、小太りで、背を丸くしていて、膨れた体はストレスと、それから呼ばれたアルコールの影響を受けているのは、誰であってもわかり切ったことだった。
深緑の目は、常に悲しみを湛えていた。
雨がさあさあと降り、次第に話し声は止んだ。
「飾絵くん、囲碁打てる?」
「ええ、まあ」
「クラハは囲碁が好きなんだ。ちょっと相手してやってよ。少し用事があって」
緻里は荷物を整えながら言った。
言情研にある囲碁盤を見遣る。
ノックの音がした。かちゃりと静かに扉が開く。飾絵の知らない人の顔だった。
寧御と名乗った女子学生。後ろに茶余という女子学生を連れていた。
それじゃ、と、緻里はカバンを担いで研究室を離れた。あっという間に部外者が優勢になった。
「一応、学生証を見せてもらってもいい?」
寧御と茶余はにこりと笑って学生証を取り出した。カバンの大きさも取り出し方も、二人は全然違っていた。
茶余がカバンの中の名刺入れから、スッと学生証を出したのに対して、寧御は「あるんです、あるんですよ」と言いながらカバンの中をかき回し、ハッと思い立って財布から学生証を出す。
「茶余がカバンから出すから、うちもカバンにあると思って、……財布にあったわ」
周りはその言葉にほんわかした。
「寧御言います。学科見学で」
「茶余です。同じく学科見学で」
二人はぺこりと頭を下げた。
寧御の方は、若干訛っていた。茶余の方は訛りがなかったから、大学に入ってからの仲なのだろう。
「ごめん、今先生が用事で出ていて、言情研のことを知っているのは、僕だけで。ああ、飾絵と言います」
バタバタとテーブルを拭き、紙コップを用意して2リットルペットボトルからお茶を注いだ。
席に着いてもらったところで飾絵の端末が鳴った。わたわたと電話をお手玉して、出ると綾衣だった。
「もしもし」
「飾絵、今日ご飯どうする?」
「ごめん、後で連絡する。ちょっと立て込んでいて」
「立て込んでいる? そう」
ぷつっと切れる。それはそれで怖い。
「ごめんね、ちょっと同期に応援に来てもらうよ」
飾絵は汽子に電話した。
「おや? 珍しい、飾絵くん。どうしたの?」
「先生がいないのに学科見学の人が来てて。今、大学にいる?」
「学部図書室で本読んでた。すぐ行くよ。なんか買っていくものある?」
「凝ってないお菓子」
「はいよ」
飾絵はあたふたする運命にあるようで、それを甘受するのは、やぶさかでないようだった。クラウドに保存されていた言情研紹介スライドを引っ張り出し、プロジェクターに投影して、クラハにはこれから何にも面白くない話をすると大陸語で前置きした。
クラハは逆に興味深いと、首を振った。
飾絵の大陸語があまりに流暢だったから、寧御は驚いた表情で紙コップを取ろうとして、お茶をこぼした。
「す、すみません」
「大丈夫。本にかかってないから。濡れてない?」
飾絵はティッシュでテーブルにこぼれたお茶を拭うと、改めて紙コップにお茶を注いだ。
茶余はノートとペンを手にして、寧御はタブレットとキーボードを用意した。
「そんな大したプレゼンじゃない。それにこれは僕じゃなくて先生が使うスライドだから。わかる範囲でご説明します。まず自己紹介から」
***
寧御は西の出で、大きな都市ではなく、田畑の広がる地方から上京してきた。
茶余はフランス帰りの帰国子女だった。
一通りの学科見学、説明会の終盤に、遠慮なく扉を開ける音がして、汽子が入ってきた。
「ごめんごめん、飾絵くん。遅くなっちゃった、と、こんにちは」
汽子はクラハを見て明らかにびっくりしていた。
コツコツとかかとを鳴らしながら、テーブルにお菓子を広げると、「あなたは?」とクラハに英語で聞いた。
「緻里先生の友達だって」
飾絵が代わりに答えた。
「それはそれは。飾絵くん、大変じゃん」
椅子に座り、汽子は簡単に自己紹介する。
汽子はテキパキと周りを整え、いくつかの資料を印刷して寧御と茶余、一応クラハにも配布した。
ついでに先日のゼミの資料も出力して配る。スライドでの概略が終わると、実際の資料を元に、研究室の様子を素描する。汽子はまさに百人力という感じで立ち回った。
途中、茶余から「言語表現の構造」がやりたい研究テーマだという相談も受けた。
汽子はそれに対してとてもわかりやすい導入を添えた。
「言語内容ではなく言語構造。フランスらしい切り口だね。意味内容と表現構造が絡まってる島国の言語内容とは、かなり異質だろうから、きっと発見は大きいはず」
さらりと汽子は言ってのけた。「島国は不自由だよね」と。
ヨーロッパの哲学の歴史、思想史的土壌の話は、どうやら汽子の得意分野だったようで、10分ばかり独擅場。
「ああ、ごめん。話し過ぎた」
「いえ、うちよくわかりました」
寧御は言った。
「向いてない?」
茶余が寧御に聞いた。
「もともと、言情研は茶余が行きたいって。うちは全然、外国語とか苦手で。教育学に傾いてて」
「二人は、友達?」
汽子が聞いた。
「サークルの同期で」
「いいね」
飾絵の電話が鳴った。
「もしもし?」
「立て込んでる? 月雪が熱出したから、冷えピタ買ってきて」
「わかった」
綾衣からのヘルプコール、目の前の後輩に、正体不明の緻里の友達。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
「なんでもない顔ではないな。すまないがみなさん、今日できることは全て終わり。解散の時間となりました。言情研はそっけないと思わないでくれよ」
飾絵もクラハに店じまいを告げた。
研究室を施錠すると、飾絵は小雨の中走って帰宅した。冷えピタも忘れずに買って、食材も調達する。
わけわからん日々だった。




