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八十二章《汽子》

「制約の言語回路」八十二章《汽子》


 綾衣が子供を飾絵に預けて、久々に真珠市七番の飲み屋街をふらふらしていると、仲良くなった汽子が「合流してもいいか?」と聞いた。「もちろんだよ」と綾衣は言った。


 間を置かずに汽子はやってきた。


「ご飯は食べた?」


 綾衣は聞いた。


「少しね。でもお腹は減っている」


 路地裏の洋食屋に入る。


「洒落てるな」


 せりふが傲慢に聞こえないのは、汽子が実際に傲慢ではないからだろう。


 生姜焼きとハンバーグ、三皿目にドライカレー。三皿を二人で分ける作戦。


 二人は同じ教養科目を取っていて、そこでも話したりしていた。


 冷英の一位は府月の一位に見劣りすることはなかった。


 もちろん学科に関しては綾衣に軍配が上がるだろう。でも、センスだったり、発言の切れ味なんかは、汽子も引けを取らなかった。


 お互いがお互いに敬意を持っていたし、タイプも違うから、張り合うなんてこともなかった。


「美味いな!」


「そうでしょ、真珠市七番は、私のシマなんだ」


「へえ。こういうところに府月がいるっていうのは意外だな」


「場末感あるもんね」


「でも洒落てる。ふふ。私はこういうところに来たことがない」


「最近、七番流行ってるみたい。英語を話す人がよく来てる」


「そうだろうね。西都が島国の表なら、こういうところが裏なんだろう。裏というか」


「遠慮なしだよ、汽子」


「闇。深くて暗い。こういうところに綾衣とか麻依先輩がいる。それもなんとなくわかる。タバコ吸っていい?」


 綾衣がうなずくのを見ずに、汽子は火をつけた。


「タバコ吸うんだ。意外」


「あんまり吸わない。でもたまに吸う」


 汽子は視線を外した。


「こういうところは、」


「?」


「こういうところは、家族で来るのか?」


「中高の時は、おとーさんを待って、食べ終わっておとーさんが来たら、サクッと帰ってた」


「遅いんだ」


「そう。でも、おとーさん何してるのかはよく知らない。マンションが持ち家なのか賃貸なのかも知らない」


「なんとなくでもわかるだろ。お嬢様っていうか、パラメータ学力に振りすぎじゃない?」


「まあ、他にやることないから。逆に無教養なんだ。それは自覚ある」


 汽子は失礼にならない程度に大笑いしていた。


「自覚あるのすごいな」


「興味がないんだ。単語帳読み耽っていたらいつの間にか英文科。好きでもなんでもない。無意味に漫画を集める中学生と一緒」


「大学教員に向いてる」


「そう? でも問題意識とか皆無だよ?」


「そんなもん必要ないよ。論文なんてほとんどがこじつけなんだから。それより英語を運用する力の方がよっぽど重要だろ」


「一本もらっていい?」


「吸ったことあんの?」


「あるよ」


 綾衣は歯を見せて口にくわえると、恭しく火を受けた。「お姉さんたちによく借りてた」


「不良少女じゃん」


「そうだよ、とか言いつつ、汽子の方も慣れたもんって感じ。不良の度合いも深そう」


 汽子は煙を吐いて答えなかった。ただくすくすと笑っていた。息ではなく声で、喉から音を出していた。雰囲気のある笑い方で、特徴的だった。


「しかし、とんでもなく濃密な闇だな」


「ここが?」


 食事を終えて二軒目を探しながら、汽子は言った。


「そうは思わないかい?」


「私はここしか知らないからっと、こんばんはー」


「知り合い?」


「ガールズバーのおねーさん。昔からいるけど、年齢を経ることがないの」


「すごいな」


「冗談だよ」


「冗談かよ。でも若かったな」


「うち来る?」


「家族はいいのか?」


「おとーさんにさっきチャットした。いいって」


「ふうん。コーヒーでも買ってく?」


「淹れたげるよ。任せて! ……酒は嫌い?」


「コーヒーに比べたら少し劣る」


「じゃあケーキ買おう」


「綾衣はホスピタリティがあるな」


「真珠市の人はみんなそうだよ」


「みんな?」


「あるいは、ホスピタリティのない人を、私は真珠市の人とは認めない」


「そちらの方が面白い」


***


「部屋でタバコはやめてね。おとーさんタバコ嫌いだから」


「そうみたいだな」


「わかるの?」


「几帳面で酒も飲まない、みたいな人の家だ」


「おとーさんを悪く言わないで」


「ごめんごめん。貶してるわけじゃない。別に私はヤニカスじゃない。吸わなきゃ吸わないでいいのさ。ケーキ食おうぜ」


「じゃーん、モンブランです」


「おおー」


 綾衣は湯を沸かし、コーヒーを淹れた。


「綾衣の部屋は?」


「廊下の左の突き当たり」


「入ってみても?」


「いいけど、大したものないよ」


「お部屋拝見」


 汽子が一通りの感嘆を述べている間、綾衣はコーヒーカップをソーサーに載せ、モンブラン用に小さなフォークを用意した。


「おかえり」


「意外にも女の子の部屋だった」


「え? そう?」


「本はめちゃくちゃな量だな」


「読書の予算は無限大」


「まあ、私も人のこと言えないけど。言語関連の本は多かった。あと歴史」


「飾絵と話すのに、言語学の知識は必須なの」


「彼氏と趣味に合わせてんだ。それにしては気合いの入り方が違うな」


「彼氏じゃないよ」


「失礼。旦那さん。哲学の文献も多かった」


「まあ、19歳なりにね」


「お父さんも本を読むのか?」


「さあ?」


「あんまり話さない? 私もそうだけど」


「ほとんど知らない。受験前皿割ってたら、お母さんとの思い出の品だぞっ、って怒られたくらい。たぶんすごい人なんだろうけど。まず普通の人じゃないね。汽子のおとーさんは?」


「私と母と妹の、針のむしろだよ。めっちゃ可哀想。女嫌いになってるね。でも職業美人は好きみたい。お金持ってる人だから。ボーナスだけは別口座なんだって」


「月額給与は全額徴収されるの? それはすごい世界だ」


「お嬢様。世の中の男の稼いだ金は、全て妻の元で管理されるんですよ」


「そうなの? じゃあ飾絵にも言ってあげよう。これからお小遣い制にするのどう? って」


「マジでビビると思うよ。モンブラン美味いな」


「真珠市七番は隠れスイーツの聖地。あそこ、元々は古本屋だったんだけど」


「へえ」


「七番は変わらないと思ってたけど、変わらないのは私で、街は刻々と姿を変えている」


「つまり、街なんてどうでもいいんじゃない? 私は新明市の出身だけど、こんなふうに外を歩いたりはしない。新明市の街は、隣の参崎ともちょっと違うけど、あんまり雰囲気のいい街じゃないから」


「新明市って古日本ってとこだよね?」


「古日本なんて久々に聞いた。私は別に街にアイデンティティを求めたりしない。冷英も大学は蹴ったし、第一学府だって、真のホームになるかは未知数。そういうの、寂しいって、思う?」


「新明市って、お堀もあるし、大学も多くて、文化の極みって印象だけど」


「まあ、新明通りは自慢かな。別名唐蔵坂」


「今度行ってもいい?」


「ああ。っと、ケーキ美味しかった。そろそろ帰るよ」


「駅までおく…………っ、う?」


「綾衣さ、ちょっと可愛すぎる」


「タバコの香り」


 綾衣は呆けたまま、唇を舐めた。


「別に、いいけど。でも片手で彼氏の手をつかむなら、もう片方の手は私のために空けておいてくれてもいい?」


「汽子がどうしてそんなに自信満々なのか、私にはわからないんだけど」


「私は、自信満々が信条なのさ」


「駅まで送るけど?」


「ありがとう」


 帰り道の商店街はもう夜遅く、飲み屋が扉を開けている他は、シャッターが閉まっていた。


 綾衣の隣で汽子はタバコを吸い、綾衣にも火を分けた。


 綾衣は、タバコを吸いがてら、客引きに立つ顔見知りに、姫か? と疑いたくなるくらい清楚な笑顔を振り撒いていた。


「綾衣、世間知らずな顔をして、欺くなよな」


「そう見える?」


「世界に対する憎悪を感じるよ」


「そうかな。もしそうだとして、憎悪を抱くことは、よくないことかな?」


「そういうロジックが、そもそも悪だろ。世界はレトリックじゃないんだ」


「でも思考は……」


「思考は言語だって? 私のキスは?」


「それも効果的な言語だし、意思の具現化でしょう? あなたのメッセージは受け取った。行為という言語で」


「イギリス言語哲学に毒されているな。古めかしいけど、一つの」


 深い吐息に煙が乗った。汽子は言葉を飲み込んだ。


「汽子と話すのは楽しいよ。でもおわかりの通り、私は、情に厚いタイプじゃない。表面的な解釈では終わらない、」


「いい女」


「もしそう言うことが許されるならね」


 携帯灰皿を出して、汽子は綾衣の分も一緒にタバコの火を消した。


「駅までの道はもうわかる。また大学で」


「唐蔵坂、楽しみにしてる」


 返事なく汽子は視界から外れた。

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