八十一章《月雪》
「制約の言語回路」八十一章《月雪》
「はまな、私の赤ちゃんだよ」
綾衣は子供を産むと、実家を訪れて猫に言った。猫のはまなは何の興味も示さず、綾衣のことも忘れているかのようだった。
撫でてやると気持ちよさそうに鳴くけれど、コミュニケーションが取れているわけではなかった。
「おとーさん、ただいま」
「夕飯はどうするんだ?」
「食べてく、いい?」
「何が食べたい?」
「カレー? かなぁ」
「名前は? 飾絵くんと綾衣、どっちが決めたんだ?」
「飾絵が決めた。月雪ちゃん」
「女の子なんだ」
「そうだよ。ほら、月雪、こんにちは〜って。おじいちゃんだよ」
綾衣の父親は珍しくくすりと笑った。
「この歳でおじいちゃんとはね。大学はどうするんだ?」
「月雪が一歳くらいになったら、飾絵と交代で世話して、大学にも行けたらなって」
「まあ君は、後悔するタイプじゃないからな」
「後悔?」
「私はそうだった、という話だよ。まあ君は、とても育てやすく、可愛い子供だったけれど」
「もうツインテールはできない……。お母さんになってしまった」
月雪はえへへと笑ったように見えた。
***
飾絵は言情研に進んだ。
教員である緻里に、綾衣と結婚した旨を伝えると、緻里はにっこりと微笑んだ。
「仲が良さそうだったもんね」
「実は子供までいるんです」
それは流石に笑えなかったのか、目を丸くして、緻里は数瞬沈黙した。
「だから、もしかしたら育児とかで、その……」
「わかったよ。できる限り配慮する、それでいいかな」
飾絵はうなずいた。
「飾絵くん、結婚してんの?」
同期の汽子が首を突っ込む。
「そうなんだ」
「どんな子と結婚したの?」
「府月の同学と」
「同学ね。てことは、二人とも第一学府にいるの?」
「そういうことになるね」
大袈裟に驚いた顔をして、汽子は笑顔を作った。
「赤ちゃんも府月に入れるの? スーパーエリートなのに、学生結婚。笑っちゃうなぁ。好きなんだ」
「中高六年も一緒だった」
「へえー。そりゃ素敵なことだね。ふうん、恋愛をすっ飛ばした感じか。府月のなんて方?」
「綾衣」
「府月一位、ふうん、聞いたことあるよ。背の高い天然さんだって」
「それ、たぶん綾衣怒る」
「天然じゃないやい、って?」
くくくと汽子は笑った。「おぼっちゃまみたいなのに、孕ませるんだ。一周回って世間知らずだね」
「汽子さんは、府学なの?」
「私? 私は違うよ。名もなき私立出身」
「冷英とか?」
「そ。冷英では、一番だったけど、府月一位には敵わない。飾絵くんは、府月でも上位だったの?」
「いつも三位だったよ。綾衣は、一度も負けなかった。水考も、二次試験もね」
「でも今年の首席は末凪さんだったね」
「綾衣、悔しそうにしていたよ」
巧みな会話回しで、飾絵はおぼっちゃま疑惑をかわそうとする。
「実際どんな感じなの?」
「へ?」
「結婚するって」
「さあ。最近は仕事で忙しくしていて、勉強もできてないし、正直早まったなって」
「後悔してる?」
飾絵はしばらく考えた。
「後悔っていう感情は、覚えたことがないからわからないけど」
「へえ。そりゃすごい。私は後悔してばかりだ」
汽子は、ともすると野蛮な感じを醸し出していたが、その実繊細なんだろうことが、飾絵には見て取れた。
よく聴いているし、よく見ている。それに、見た目より言葉で判断する傾向がある。その方が間違いが少ないことを、汽子は意識しているに違いない。
髪はうねっていて、瞼は一重。唇が薄く、笑うと口が裂けているように見えないこともない。
歯並びが綺麗で、指が長かった。化粧も上手い。綾衣に教えてあげて欲しいくらいだった。冷英は伊達じゃない。一流のコミュニケーション強者の集団だ。
「今度、綾衣さんも連れてきなよ。講演会以来の仲じゃない。遠慮しないで」
緻里が言った。
「赤ちゃんはうるさくないですか?」
「飾絵くん、赤ちゃんはうるさいものだし、君も私も、昔は赤ちゃんだったんだよ」
「先生、うるさいものはうるさいんです。そんなの聞き分けよすぎですよ」
汽子は冗談で煙を撒きながら本音をつぶやいた。もしかしたら本音ではないのかもしれないけれど、教師に冗談を言ってのけるのだから肝が据わっている。
「赤ちゃんは、そしたら家族に預けますよ」
「いやむしろ赤ちゃんこそ主賓じゃない? うるさくなんかないよ」
緻里は汽子の訴えを退けた。
***
「うわっ、可愛いじゃんか」
汽子は月雪を見て声を上げた。
「汽子さん、赤ちゃん嫌いなんじゃなかったの?」
飾絵は先日の汽子の発言を覚えていた。
「嫌いじゃないよ。ちょっと悪びれただけさ」
「汽子さん、はじめまして。英文科の綾衣です」
「背ぇたっか。170はあるよね。モデルみたい」
「そんなこと言われたことない」
「ほんとかぁ? みんな遠慮してんじゃない?」
「綾衣さん、久しぶりだね。講演会以来。やっぱり第一学府に来た」
緻里が言った。
「ええ、先生、お久しぶりです。月雪ー、ほら挨拶して。こんにちは、せんせーって」
「まだ無理じゃない」
飾絵は言った。
「そんなことない。月雪は優秀」
月雪は手を振る緻里に手を伸ばして笑った。「ほらね」
「月雪ちゃんの月は、府月の月?」
「そだよ。汽子さんは、府陽とか?」
「いいや。私は冷英」
「麻依さんって知ってる?」
すぐさまの反応に、汽子は綾衣の反応の速さを感じ取る。
「ああ、偉大な先輩だね。出たら100パーミス冷英だったのに、そういうのが嫌いだったから出なかったっていう逸話がとどろいてる。でも彼女は思わせぶりな態度を取らないから、みんな気軽に話しかけていた。私も一度お話しする機会を得たよ。……それがどうかした?」
「いいや、麻依さんとは友達だから、汽子さんとも友達になりたいな」
「いいよ。でも、お二人はそっくりだね」
「月雪と私?」
「いや、飾絵くんと綾衣さん」
飾絵はびっくりした表情で汽子を見た。
「ほら、とても穏やかで。文学部系列に進学するんだから、きっと野心もないんだろ?」
「野心? 確かに人生でその単語使ったことないかも」
「冷英の看板学部は何か知ってる?」
「いや」
「府月から冷英に来る人も少ないだろうから、知らなくても当たり前か。経済学部だよ」
「経済ね」
「金持ちになりたいのさ。私? 私はほら、もう金持ちだから」
綾衣はにこにこしながら汽子の話を聞いていた。汽子は自然に話を続け、綾衣はそれを促した。汽子は話好きではあるけれど、余計なことはあまり言わないたちだったが、思わず逸話を披露する羽目になった。
「綾衣さんは、その歳でもう立派なお母さんだ」
「年増ということですね、ガーン」
「学術的野心が感じられない」
「世間知らずのお嬢様だからかなぁ」
「そう見せているだけでしょ?」
綾衣はからからと笑った。
「それは買いかぶりだよ。私は本当に世間知らずなんだ」
抱っこ紐で抱えた綾衣は、揺すりながら、月雪の頭を撫でた。
「謙虚だね。世間知らずなんてのもスケープゴート」
「私は簡単なんだよ。受験のストレスで、思い余ったの」
「それは軽薄じゃないよ。府月一位の権利じゃない? それに、思い余ったの、なんて実に堂に入っている」
「麻依さんもそうだけど、汽子さんも、男を信じていないんだ?」
「はは、それはあるかもしれない」
可愛いな。そう言って汽子は月雪の頬をつついた。泣くことなく上機嫌なのは、月雪の美徳だろう。
局長が入ってきたところで、緻里は会食の段取りを始めた。




