八十章《孤独の一種》
「制約の言語回路」八十章《孤独の一種》
綾衣と飾絵は、第一学府に入学した。
入学式で代表を務めたのは府陽の末凪だった。
小さな体で恭しく頭を下げ、にこやかに式辞を述べる。
綾衣は次席で、会場のフロントラインに座っていた。
式が終わった後、綾衣は末凪と少し話した。
「末凪さん学部は?」
「法学部だよ。綾衣さんは?」
「私は文学部」
「綾衣さんは、英語得意だもんね」
「そんなことない。喩喩さんは?」
「西都大にしたんだって」
綾衣は目をぱちくりとさせた。喩喩は府京だから、そういうこともあるのかもしれない。
「それじゃあね、綾衣さん。お互い無理なきよう」
「無理なきよう、末凪さん」
蓋伏にある第一学府のキャンパスで、学域ごとにクラス分けされる。
綾衣は英米文学、飾絵は言語学のクラスに所属することになった。
綾衣はクラスメイトのことをほとんど知らなかったが、綾衣のことを知るクラスメイトは何人かいた。府月生も一人。府陽や府京の生徒も、府学会議で綾衣の顔を見ていた。
自己紹介を済ませ、さっそく綾衣は飾絵と食堂で待ち合わせた。
ここにきて、綾衣と飾絵の関係が、深く密なものであることに、周囲の人も気づきつつあった。
むしろ、初めて綾衣を見る人の方が、綾衣の顔に幸せを見出すことが多かった。飾絵と話している様子は、素敵な女の子そのものだったから。
新入生が並ぶ食堂の列も、彼氏と一緒なら退屈しない。
高校時代の彼氏彼女で、離れ離れになることなく第一学府まで到達することは、そもそも奇跡だ。そういう視線を飾絵は受け取った。一方の綾衣は何も気にしていなかった。
授業が始まってまもなくすると、綾衣は図書館にこもりきりになり、それに付き合って飾絵も勉強した。
休日も蓋伏に出て、図書館で十数時間。
それから二人で、真珠市で映画を見たりした。
綾衣が子供を孕んだことに気づいたのは、ちょうど夏休みに差しかかる頃だった。
***
「子供、できたみたい」
綾衣は父親に言った。
「おろすのか? 育てるのか?」
「育てるよ」
「恋人には言ったのか?」
「まだ」
「結婚するのか? 大学はどうする?」
「結婚したい。今度紹介する。大学は、しばらく休む。一人でも勉強はできるから」
「相手は?」
「府月の同級生」
「名前は?」
「飾絵」
父親はしばらく口を開かなかった。
***
飾絵に子を孕んだことを伝えると、飾絵は少し動揺した。
「どうすればいいんだろう。お金を稼がなくちゃいけないかな」
「飾絵は大学に残りなよ。中退なんてもったいないよ」
「結婚したり、子供を養ったりするのなら」
「塾の先生にでもなればいいよ。府月出身なら引くて数多。何年かかけて卒業しなよ」
「そうする」
「飾絵のご両親にも挨拶したい」
「僕も、綾衣さんのご家族に、ご結婚をお願いしに行かなくちゃ」
「内緒にしてたから怒られるかな」
綾衣は笑った。
例によって綾衣の父親は憮然として、結婚にも簡単にはうなずかなかった。というか、もう結婚は前提であり、それに口出すことが、既成事実からしてできなかった。
性格からして罵倒することもできず、娘が男の元に行くのを、ただただ眺めるだけになった。
娘の結婚式とか、そういうものを楽しみにしていなかったわけじゃない。だから、そういうものがしばらく期待できないことに、文句も言えなかった。
「幸せにしてやってくれ」
そういう切なる願いも、言葉にはされなかった。
綾衣は、飾絵の堂々とした態度が意外だった。自信に満ち、飾絵が綾衣に対するような、遠慮気味の言葉遣いは、綾衣の父親の前では見られなかった。
結婚して当たり前だと思っている、とまでは言えないが、少し傲慢な感じがした。
「私が飾絵の家に入ると、お父さんはひとりぼっちだ」
「しばらくは別々に住む?」
「どっちでもいい。子供を大切にできれば」
綾衣が飾絵の家に挨拶に行くと、飾絵の妹と、飾絵の母親だけが待っていた。父親は海外に赴任していて、顔を出せないと、あらかじめ飾絵は綾衣に通知していた。
「お兄ちゃん、やりますね。とても美人なお姉さんができる」
飾絵の妹の文佳は開口一番そう言って、ぺこりとお辞儀すると、玄関から綾衣を導いた。まだ中学生に見える。
簡単に自己紹介して、改めて、子供を授かったことを飾絵の母親に伝えた。
「ごめんなさいね」
飾絵の母親は言った。
「そんなことありません。私は飾絵君のことが好きですから」
「そう言っていただけるなら。綾衣さんのご家族は、怒っていませんでした?」
「怒るも何も、私のことですから」
「大切に育ててきた娘さんをねえ。飾絵、順序が違うんじゃない? 彼女ができたなら言いなさいよ。半人前で子供なんて。ああ、安心してくださいね。不自由な思いはさせません。綾衣さんが、安心して子供を育てられるように、私たちはお手伝いします。それはもう、一生懸命。せっかく第一学府に入ったのに、辞めるなんてなしですよ。きっとこの妹も、お手伝いしますよ」
「文佳です! よろしくお願いします!!」
「どちらでもいいですけど、二人で過ごすのがいいなら、郊外に一部屋借りますか? それとも」
「文佳、お姉さんと一緒に住みたいなー」
目まぐるしく変わる状況や思惑を、綾衣は一つ一つ飲み込んでいった。
飾絵の家は一軒家で、かなり広かった。都心からは少し外れたところにあるけれど、アクセスの良い立地で、車を二台所有し、庭を持っていた。三人では広すぎるくらいの家であり、綾衣を収容するくらいの部屋は二、三個転がっていそうだった。
案に違わず、「この部屋はどう?」と妹から提示があった。文佳が遊び部屋にしている部屋で、日差しが差し込むと明るい部屋だった。
結婚した日は、二人で焼肉を食べた。
飾絵は本格的に働き始め、綾衣は飾絵の実家に部屋をもらった。
「えー、真珠市出身なんですかー!? シティガール、シティガール」
「そんなことない」
「そんなことなくないですよ! それに、すごい頭がいいって、お兄ちゃんが」
「頭良かったら18で子供作ってない」
「そんなことないですよ。私も好きな人の赤ちゃん欲しいもん。そゆことですよね?」
「そゆことかな?」
家事を手伝おうとしても、飾絵の母親は遠慮してなのか、綾衣には何もやらせてくれなかった。
仕方なく文佳の勉強でも見ようかと思ったが、飾絵の妹だけあって口を出すところがない。
綾衣は、いきなりやることがなくなって、仕方なく勉強していた。
日に日にお腹は大きくなり、細かった体は徐々に丸みを帯びていった。
仕事で忙しい飾絵とは、昼間会うことはできなかった。朝ごはんを一緒に食べ、夜の短い時間だけ話したり、キスをしたりした。
二人とも子供ができることの意味が、よくわかっていなかった。そのことについて綾衣は悩んでいた。でも、綾衣の表情や振る舞いにその不安は表出していなかったから、誰も気づかなかった。
綾衣に母親の記憶は薄い。影のように自分の後ろにあるのに、その中身を見ることができない、平面的な記憶だった。
飾絵も綾衣も、勉強したい時期なのに、ほとんど勉強できなかった。
麻依にだけ、綾衣は連絡を取っていた。
サバサバした口調で、電話を受けてくれるのは嬉しいけれど、麻依はいつも酔っていた。
臨月に真珠市の実家へ帰っても、綾衣は父親とほとんど話すことがなかった。
全てが裏目に出て、誰からも歓迎されていないように思えた。
ただ、綾衣は孤独ということを知らなかった。いつもそばに人がいるということではなく、孤独が寂しいものだという通念を、綾衣がまだ身につけていないということだった。




