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八章《理維》

「制約の言語回路」八章《理維》


 海鳥みたいだと思った。雲間に現れるその女性は、近づいて見てみると、白くて眩しい。


 傘を右手に持ちながら、風を掴みなんとか浮き上がると、緻里は速度を上げ、海鳥に接近した。


 海鳥はこちらのことに気づかないようで、何か特別な警戒術式を使っているわけではなさそうだった。


 風の不自然な動きで、海鳥はこちらを見た。緻里は突然撃墜されるなんてことのないように、警戒を厳にした。


「あ、緻里さん」


 警戒していたにもかかわらず、緻里は虚をつかれた。


「緻里さんも飛べるんですね」


 緻里は目の前の見知らぬ人がどうして自分を知っているのか、記憶をかき混ぜながらなんとか自分に説明しようとした。


「ごめん。僕のことを知ってるみたいだけど、僕は君のこと知らない」


「私は上位クラスに所属する、理維です。一緒に大陸をボコボコにする仲間ですから、よく知ってますよ」


 理維りい。大陸への敵意を露わにする言説を、同級生から聞いたのは初めてだった。そして、緻里からすればそれは、都市のコスモポリタニズムの対極にある田舎のナショナリズムだった。そんなものは「ご出身は?」なんて聞かなくともわかる。それに緻里は、田舎者と話すのが、人生で最も嫌いなことの一つだった。


 気流を利用しているわけではなさそう。であればどうやって飛んでいるのだろう? 緻里は、そのことには興味があった。理維は聞けばペラペラ話してくれる。自己顕示欲が溢れている。


「重力操作です。他愛のないことですよ」


 本当に他愛のないことがどうかは、緻里にはわからないし、わかりたくもなかったが、この類の手合いと今後コミュニケーションを取らなくてはならないと思うと辟易した。


 緻里が本気で、高校時代の馬力があれば、早めにわからせて関係を永遠に絶ってしまう(この世からいなくなっていただく)方針を立てるだろう。でも今は……? 今はどれくらいのことができるのだろう? 雨雲はまだ近くにある。雷を呼ぶことは難しくても、気流で翻弄するくらい……。


 風を呼ぶと、応えてくれる感触がした。


「おとと、風強いですねー」


 理維の姿勢制御は、ちょっとした強風では揺らがない。まだ理維は、緻里が悪戯していることに気づいてはいない。


 上空の、寒気をはらんだ空気の塊に周囲の雲から水分を移動させる。凝結した水蒸気は、雨となってまた降り注ぐ。風が絡みながら緻里の空間支配下でうねりとなる。


「雨も降ってきましたか。緻里さんも傘をお使いになられては? 私は雨を弾きます」


 重力のエフェクトは強烈な反物質を形成したのか、雨に対して反発した。バラバラと落ちる雹霰も、おそらくよく空を飛ぶ理維にしてみれば当たり前のことで、緻里の能力に気づく素振りは全くなく、ただ緻里は屈辱を感じるだけだった。


 遠くに積乱雲が立ち込めていた。緻里は雷の気配を探した。列を成す積乱雲と違い、今回の積乱雲の影響圏は二キロといったところ。空間の空気の密度を調節し、稲光を導く。できる、そう感じた瞬間に閃光が瞬き、稲妻が「緻里に」襲いかかった。


 感電したのは何年ぶりだろう。衝撃に撃墜された緻里は、悔しさと相半ばする達成感で思考が満たされ、姿勢制御まで気が向かず、自由落下していった。海に叩きつけられれば骨折は免れない。運が悪ければ死だ。体が痺れて動かない。言語機能が麻痺して、術式も立てられない。


「何歳だよ」


 ぼそっと口に言葉がのぼる。覚醒すると、重力が逆向きに働いているフィールドに包まれていた。


「傘、忘れてますよ、緻里さん」


 避雷針になって焼かれたはずなのに新品のように外観を保つ思純の傘を、理維は緻里の掌の中に握り込ませた。


 海面近く、体を起き上がらせると重力反発のフィールドからずり落ちそうになる。


 緻里はなんとか意識を取り戻し、気流に働きかけて宙に浮いた。


「ありがとうございます、雷を受けてくれて」


「とんでもない」(あなたを狙ったものでしたが、上首尾に終わらず遺憾ですらありますよ)


「すごい雨だね」


 暗雲が立ち込める。緻里はかつては何十キロ先でも雨雲の連なりを知覚できたが、今はせいぜい数キロ。でもこの雨は、続くことが予感された。


「緻里さん、医務室行かなくて大丈夫ですか?」


 緻里は曖昧に笑った。第一印象に真っ向から反して、理維は緻里の命の恩人になった。


***


 李白や杜甫の詩から、天体や自然に対する「情感」を抜き取って、それは本当に人間のものなのかを吟味する。月や山河から修辞として以上の意味内容を、緻里は上手く感じ取ることができないでいた。時代というより感性の、感性というより言語の、言語というより世界の、徹底的な差異がそこにはあった。


 それを総じて古典とし、古学とすることに、緻里は何の抵抗もなかった。


 自然の中に孤独を見出すこと、遠方の友を月に映し出すことは、まだ二十にも満たない緻里にはやったことのない「たしなみ」だった。


「いつか僕も詩を書けるのだろうか」


 緻里は大学中心に入ってから、しばらくそのことを悩んでいた。


 散文ですらまとまりがないのに、韻文なんていつ書けるだろう。


 緻里は北城市の第二中学での授業を思い返す。テーマを与えられて課題文を書く。そういうものは、苦手だと思わなかった。何を書いていたか忘れたが、それは何も考えず書いていたからだ。思純はいつも表彰され、それをみんなの前で朗読した。あくびをしながら聞いていたから、覚えているはずもない。そもそも本を読む習慣も、大学に入ってから本格的になったのだ。


 緻里は昔から、読んだものを記憶することが苦手ではなかった。視覚的にというよりはやや聴覚優位的に、ワーキングメモリに刻み込んだ。言語を吸収することが極めて巧みだったのも、聴覚優位の認識枠組みのおかげだった。


 だが今はそうでもない。笑ってしまうことに、読書の内容は読んだ片端から忘却のブラックホールに吸い込まれていき、自由に取り出そうとしてもうまく行かない。それに抗おうとしても無駄だと、最近は諦念に包まれている。


 だから、読んだ本を記憶に位置させることはまず無理で、吸収できる知識は読書量の十分の一に満たなかった。


 でもそれでよかった。天才だという称号も、夢であり、かつ空虚なものだと、緻里は早くに気づくことができて、納得していた。天才であることが病なのか、天才であることをやめざるを得なかった今が病なのか、判断できる人はいない。そこに一貫性を求める市井の人は、何もわかっていないのだ。


 一年の後期になると、研究室に配属された。


 緻里はそこで言雅げんがと出会った。

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