七十八章《積乱雲》
「制約の言語回路」七十八章《積乱雲》
息詰まるような思考の奔流が、そのままその思考の対象への懐疑を生み出す。
何かを解き明かそうと希求する心は、そのままそれが心を縛り、「私たちに」制約を加える。
まばらな方がいい。密だと動けない。
熱に任せた夜中の構想が、ガラクタに過ぎないことがよくあるように。
より少ない方へと考えを運べば、少なくとも息詰まることはなくなる。
息詰まらないことが重要なのだ。
いくら言葉で突き詰めても、誰にも共有されない知は、自分にとって毒にしかならない。
軽く、より軽く。思考の対象に懐疑を覚えるなんて不安を、誰も感じたくはないから。
***
飾絵はそう言った。ところどころ言い淀むところもあったが、比較的流麗に。綾衣はそれを聞いた。
「それは詩なの?」
「韻も何もない。散文だよ」
「そおかなぁ。巧拙を論じるほど学がないから、評価はしないけど。でもいい感じの発散だね」
「発散?」
「あるいは共有とか」
「綾衣さんは、僕の言っていることがわかるの?」
「わかるよ。難しさじゃないんだよね。思考のスキームが、飾絵は独特だから」
「綾衣さんに言われたくないけど」
「私はほら、私だから。それで満足してるんだよ。飾絵には野心があるんでしょ?」
「それは言えない。でも、わかるって不思議じゃない?」
「私にしてみれば、わからないことの方が不思議。そうじゃない? だってある程度まで同じ形をした人間なんだから」
綾衣は飾絵に微笑んだ。
「一つとして同じものはないのに?」
「完全に異なるものもまた、存在しないから」
***
「おとーさんはさ、娘にどこに行ってほしいとか、あったりするの?」
「ない」
「そう。最近は珍しく勉強してるから、府陽の末凪さんと、府京の喩喩さんには負けるけど、府月では一位だよ」
「そうか」
「第一学府だって余裕で入れちゃうんだ」
「そうか。ところでどうして、そんなに悲しそうに話すんだ?」
「おとーさんは、私に興味ないの?」
「そんなことないさ」
かちゃかちゃと食器を洗いながら、綾衣の父親は娘と話す。
「どうすればいいんだろ」
「珍しく悩んでるんだな」
父親は紅茶をいれて、綾衣の前に出した。
「いらないよ」
「そうか」
綾衣の前に出した紅茶を、父親はシンクに流した。また食器を洗う音がした。「答えなんかないんだ。好きに生きればいい」
「そんなそっけないことある? そんな抽象的な答えが、答えのはずないよ。もっと具体的な話をしてよ」
「学部は、どうするんだ?」
「英文学」
「それなら冷英がいいだろう。麻依さんの話をよく聞くんだな」
「それだけ?」
「例を挙げただけさ」
「つらいよ」
「その気持ちは私にもわかる」
「わかるはずないよ、おとーさんは私じゃないんだよ」
「そうかもな。すまない」
「なんで喜んでくれないの? 娘は島国で一桁の頭脳なんだよ?」
「君がその話を、外でしないことは、容易に想像される。つらいだろうなと思うよ。でも、私はそのことを以て、君を評価しようとは思わない。それに、君のその優秀さは、私ではなく君の母親の持っていたものだ。面影を重ねると、昔のことを思い出す。あの時彼女が高校で言っていたこと、快活な表情、高い身長、君にそれを押しつけたくはない。私は、彼女が好きだった」
「私も、飾絵のことは好き」
「友達だろ?」
「そう、友達。でも、好きなんだ」
「そういうのがいいよ」
「?」
「君は、いつもそうじゃないか。深刻に考え過ぎない。いつも楽しそうにしている。たとえ、裏で深い思索の根を見えないところに伸ばしていても、表にはいつも花を咲かせて。君は、そのことを大事にしなよ」
***
コンクリートの建物は、白い蛍光灯で、夜も照らされている。
先生たちは職員室から去り、同学も帰って閑散とした教室で、綾衣は飾絵とキスをした。「なぁなぁ」と袖を取り、綾衣は飾絵の肩を持って、彼の紅い脂を拭ってやったのだ。
「飾絵と離れ離れになるのは嫌だ。君はどこに行く? 私はずっとついていきたい」
綾衣は目元を赤くして、じっと飾絵を見た。「中学の初めの頃の飾絵と、今と何も変わらない。ずっと好きだった。君は、っ」
綾衣の背が高く、細く、髪に纏われた体を引き寄せて、飾絵は綾衣を抱きしめた。
なぜ今なんだろう。綾衣は考えた。今言わなければ、きっと後悔するから? それだけではない気がする。
飾絵の細くて長い指ががっしりと綾衣の肩と背中をつかみ、綾衣の平生では考えられない体の震えを感じ取る。
「どこでもいいと思っていた。どこでも私のやることは変わらないなって、どこか安心していた。そんなものは全て嘘で、私の大切なものがここにあることを、当たり前だと思い、過小評価していた。私は、今の気持ちのまま、私の一生を生きる。今、飾絵が好きな気持ちは、変わらないと思うのだけど。どうかな。君はいい香りがする」
夏の積乱雲が、暗闇の夜にせせり立つ。
ゴロゴロと雷が鳴り、大雨の音が耳に入ってくる。電灯は帷子のように隙間のない雨を、必死に照らしていた。
「飾絵が好きだ」
綾衣はもう一度飾絵の唇をついばんだ。
「傘、持ってる?」
「飾絵は?」
「残念ながら、僕は持っていない」
「私は折りたたみが」
「僕は濡れて帰るよ」
「一緒に帰るんじゃないの?」
綾衣はキョトンとした顔で飾絵に聞いた。
飾絵は笑って、指でさらりとした綾衣の髪をすくと、寄せて頭を撫でた。
「帰ろう」
きゃははははと、無邪気に綾衣は濡れる。走りながらカバンを濡らす。水の踊り子のように、街灯が彼女を映し出した。
水は彼女を潤わせる。制服がピッタリと体にくっつき、髪はしっとりと濡れる。妖艶なまでの肌のきらめきと、彼女の無邪気な心が浮かれていた。彼女の傘に彼は入っていた。
駅へ着くと、飾絵は鞄に入っていたブレザーを彼女の肩にかけた。
「明日返してくれればいいから」
「敷布団にする」
「それはやめてよ」
「絶対敷布団にする」
「まあいいけどさ」
「傘使って。女物だけど」
「いいよ。僕は傘は借りても、持って帰りはしないんだ」
「どーして?」
「傘を依代にはしたくないんだよ」
「ブレザーは最高の依代。帰ってこないかもよ?」
「それなら、また新しいものを買うさ。さよなら綾衣さん。また明日。風邪ひかないでね」
「さよなら飾絵。また明日。私のこと好き?」
飾絵は笑って手を振った。その言葉がなかったことを、誤解する余地は、二人の間にはもうなかった。
さあさあと雨は降り、夏の夜の気温を下げ、飾絵は家に帰ると、母親の作ってくれたご飯を食べて、シャワーを浴びて寝た。
彼女の中には複雑なことがない。心の中の広い空間に間隔を置いて、物や事が入れられている。
「うらやましくはないけど」
うらやましくないと笑むことそのものが、飾絵の、綾衣に対する距離感を適切に保つ、一つの哲学的な文句だった。




