七十七章《麻依》
「制約の言語回路」七十七章《麻依》
綾衣の家には猫がいる。「はまな」という名前。
ご飯を用意してやって、水を替え、何回か撫でてやると、はまなは伸びをして綾衣の寝室に戻っていった。
綾衣の母親はいない。
家の中の寂しさを紛らわすように、綾衣は猫を飼った。
はまなは、綾衣の親友筆頭で、綾衣はいつもはまなを抱いて寝る。
今日もそうだった。
大きなベッドに綾衣も、猫のように丸まって寝る。猫の形をかたどる、深い眠りだった。
***
綾衣の朝は早い。起きたらシャワーを浴び、ご飯を作って、父親と食べる。朝はほとんどが紅茶。はまなと軽く散歩をして、朝散歩仲間の名も知らぬ人たちと会釈を交わす。
髪を整え、肌に日焼け止めを塗り、単語帳くらいしか入っていないカバンを持ち上げると、彼女は学校へ向かった。
電車が混む前の、かなり早い時間に、綾衣は府月に着く。
「こんにゃー」
「はい、こんにちは」
「たがにゃん早起きだねえ」
「綾衣もな」
「私が一番じゃないでしょ?」
「この時間に来るのは二、三人だ。教室で本でも読むのか?」
「ううん、勉強する。そろそろ受験だから」
「お前、どこ行くんだ?」
「さあ、わからない。大学なんて行かなくてもいいって気もしてくる。でも、ほらお父さんに悪いから。府月にも通わせてくれたし、恩返ししないと」
「無理するなよ」
「たがにゃんには私が無理してるように見える?」
「いや? 全然」
「にはは。せやろ?」
綾衣は他書教諭に手を振って、校舎へと入っていった。
コツコツと革靴を鳴らし、階段を上がる。三階の一番奥が一組。ガラリと扉を開けると楽藍がいた。
「おはよ」
綾衣はそっけなく挨拶した。楽藍は顔を上げてわずかに頭を動かした。
ピリリと緊張が走る。
綾衣は荷物を置いて、数学の参考書を取り出した。菜故から配られた、激ムズ参考書だ。学校でやるのは珍しく、集中していたから、登校した他の生徒が遠巻きに見ていることに、綾衣は気づかなかった。
「綾衣おはよぉ。勉強?」
夜宵があくびをしながら綾衣の隣に座った。
「そだよ」
「いつも本読んでるじゃん。どしたの?」
「高校生活悔いのないようにと思って」
「綾衣が本気出したら、誰も追いつけないよ」
「そんなことないよ」
「こんにゃー」
「こんにゃー」
ホームルームが始まった。
***
日曜日。綾衣は私服で「真珠市一番」の書店「瑠璃」の中で麻依を待っていた。ツインテールにリボンをして、サイドにスッと髪が垂れ落ちている。胸元を強調するファッションのわりに、膨らみが乏しいのが逆に自慢。腰はきゅっとくびれていて、丈の短いスカートと、ニーソックス。靴にこだわりはないらしく、スニーカーを履いていた。
「何その服、綾、そんなの持ってたの?」
「ちょっとふざけてる」
「ツインテールあざとくないの美徳だよ」
「ありがと、麻依さんいつも綺麗」
麻依は濃いブルーのワンピースに、小さなポーチ。サンダルはいかにも高そうで、綾衣は思わず自分のスニーカーをチラリと見た。
(なんも言われないといいなぁ)
真珠市一番駅から参崎までは電車が走っている。真珠市が綾衣のホームタウンなら、参崎は麻依のメインフィールドだった。
参崎まで好アクセスの冷英大学生活中、麻依は幾度となく足を運び、実に勝手を知っている。自分が遊んでいた場所で働きたくないという理由で、一流企業の内定を蹴ったこともある。
今日は美味しい大陸料理。雑居ビルの三階、知る人ぞ知る名店だった。
「空いてる?」
「お二人なら。麻依さん、ようこそ」
綾衣は高校生らしくぺこりと頭を下げる。堅苦しさはない、適当さが伝わって、なんとも気楽だった。
「何食べる?」
「うーん、麻婆豆腐。とびきり麻辣なやつ」
「服よごさないようにね」
「麻依さんは?」
「私、トンポーロー」
綾衣は軽く手を上にかざして、注文をウェイターに伝えた。
「菊茶です」
ポットが置かれた。
「甘い香り」
「花の香りだ」
綾衣はいそいそとカップに菊茶を注ぎ、カチリと杯を麻依のカップと合わせると、ちびりと飲んだ。
「麻依さんはここによく来るの?」
「学生の頃は本当に週一くらいで来てて」
「ふゅ、いい店だぁ」
参崎に相応しい品格と、それなのに親しげで柔和な雰囲気。大陸語が飛び交うのは、島国ではここくらいかもしれない。戦争のことを忘れられる、とてもおしとやかな空間だった。
麻婆豆腐とトンポーロー。白米が添えられて、スープがついていた。
「からぁー」
「辛すぎる?」
「そんなこたぁねぇですけど。鼻腔を刺激する山椒が、すごい」
ちびりと菊茶を飲み、汗をかきながら綾衣は、麻婆豆腐をガツガツと食べる。香辛料が食欲を刺激する。
「綾、食べ慣れてるね」
「まあ、ほら、おとーさんがいろんなところ連れてってくれるから」
「それにしても速い」
「麻依さんが女の子って感じでゆっくり食べるのは、焦らしてるって思う」
「男の子みたいなこと言わないでよ」
「男の子?」
「早く食べ終わって、水のおかわりばかりする男の子」
「私は男ではないぞよ?」
「例え話よ」
「あ、すみません、お水のおかわりを。あ、どうも、なんならピッチャー置いていただいても」
綾衣の冗談に麻依はくすりと笑った。
***
参崎のカフェで時間をつぶす。
テラス席はまばらに人がいた。
「お姉さんたち」
ビクッと綾衣は肩を震わせた。お姉さんたち?
「こんにちは、お兄さんたち」
にこやかに麻依は答えた。
お兄さんたちは四人いた。
「お姉さんたち、大学生?」
「そう見える?」
百戦錬磨のお断り名人、麻依が、カフェラテのティースプーンをカランとソーサーへ投げた」
「えっと、ごめん」
綾衣が高校生であることは、ちゃんと見ればわかる。というか、わかっているのかもしれない。それがゆえに、麻依に大学生か聞いたのだ。
半分の目は綾衣へ。もう半分は麻依へと注がれていた。
「お兄さんたちは、社会人てこたぁないよねぇ。ガールハントなんて暇なこと」
「戦績はいいんだ」
手前から三人目にいるチームの切れ者はそう言った。
「確かにカッコいいかも。そんなことないか。綾には敵わない」
「麻依さんは私を買いかぶってる」
「暇そうにしているのは、お姉さんも同じじゃない? カラオケとかどう? 呑みでもいいし」
「図書館ならいいけど」
綾衣は言った。「静寂過ぎて泣く子も黙る参崎図書館。おっきいんだよね」
「いいねえ」
切れ者は言った。周りも想定内なのか、にまにましている。
「綾さん、ていうんだっけ。こいつ、頭いいんだぜ」
一人が切れ者をおだてる。
「お嬢様、図書館で何をいたしましょう?」
「読書会とか。私、本は好きだから」
お兄さんたちは失笑気味。綾衣の天然に緩みつつあった。(計算です)
「私も、頭のいい男の子は好きよ」
麻依もまたにこりと笑い、空気を弛緩させた。「でも、綾衣より頭のいい人に、私会ったことがないの。もしお兄さんたちの中で、綾衣より頭のいい人がいたら、遊んだげてもいいけど?」
またまたぁ、というような冗談めかした空気がお兄さんたちの間に立ちのぼる。
「いや、こいつマジで頭いいんだわ。緋戦大だからな」
「緋戦ってどこ?」
綾衣がど天然な切り返しで、お兄さんたちを困らせる。
「さあ? 私エスカレーターだったから、他の大学は知らない」
「冷英の次くらいにいけてるとこだぜ」
切れ者をおだてる役の人が言う。
「麻依さん、冷英だよね?」
「「「え?」」」
「じゃあここで一番頭いいのは麻依さんだぁ」
「そゆこと」
麻依はピースを極める。
「お嬢様は、冷英よりすごいんですか?」
切れ者がとうとう丁寧語を使い出す。
「私は別に。単に麻依さんがそう言ってるだけで。大学もよく知らない高校生だから」
「「「高校生!?」」」
「年増でごめん」
「「「いえいえいえいえ、そんなそんなそんな」」」
「若いつもりでこの服着てます」
「綾、似合ってるよ」
「ツインテール攻めてみたんですけど、地雷系に見えないかなぁって」
「綾、地雷系になるには偏差値三十は落とさないと。綾は頂点なんだから」
「まさか府学っすか?」
綾衣は笑って肯定した。
「やばい奴らだ。冷英と府学」
「撤退だな」
「そうしよう」
「え? 図書館は?」
バイバイされる。綾衣はなんとなく寂しそう。
「いいアミューズメントだったね」
麻依は言った。
「そうかなぁ」




