七十六章《綾衣》
「制約の言語回路」七十六章《綾衣》
「綾衣っていつ勉強してるの?」
「電車の中とか」
昼休みにご飯を食べながら、綾衣は片手で英単語帳を開いて、片手でおにぎりを食べていた。「お昼休みとか」
「そんなんで学年一位取れるんだ、すごぉ」
「みんな勉強してないんじゃない?」
ぐさっと教室の仲間を心無い言葉で串刺しにする。
「そんなこと、ないと思うよ」
聞き手に回っているのは夜宵、綾衣の友達。
「ふーん」
綾衣は聞き流しながら単語帳を目で追う。
昔ながらのコンクリートの壁。四方が黒板になっていて、みんな思い思い演算している。次は数学の授業だった。
「綾衣は書かないの?」
「何を?」
「課題の答え」
「間違ってるって言うの、楽藍に悪いじゃん」
楽藍はガクッと肩を落とす。
「綾衣、聞こえてるよ」
小さな声で夜宵は言う。綾衣は聞いていない。
(大丈夫だって楽藍、綾衣さんが100パーなんてことないんだから)
楽藍は友達に慰められている。「一組二十番(二位)は伊達じゃないんだから、自信持てよ」
「だって、綾衣さん(一組一番一位)が、《楽藍に悪い》って。楽しく書いてたのに、しょんぼりだよ」
「自信持てよ。綾衣さんが間違ってるかもしれないしな」
「うううー」
各黒板に数式が敷き詰められる。力自慢ばかりの府月でも、解答がばらける。実力者の楽藍とて、毎回正解できるわけじゃない。
チャイムが鳴り、各々着席する。
「こんにゃー」
「こんにゃー」
菜故の挨拶で授業が始まる。
「いいねー、みんな答えバラバラなのに、筆圧だけは濃くて、自信満々、みたいな? 正解に近いのは、笹芽さんかぁ。楽藍くんのは、惜しい感じかな。他概ね不正解。じゃあ授業始めます」
***
放課後、部活や塾に銘々バラバラに動く。
「じゃあね、綾衣。今日も学校?」
「そうね。夜宵は塾?」
「そ」
「飾絵にもよろしく言っといて」
「あいつ、生意気なことに今日休み。お淑やかな顔して舐めてんだよ」
「自習した方が早いんでしょ」
「御同類ということで」
綾衣に話しかける人は、夜宵や飾絵以外あまりいない。委員長という柄でもなく無頼を決め込んで、いつも本ばかり読んでいる。
誰も近づくことのできない孤高の一位。
時間は刻々と過ぎて、教室に残っていた生徒たちがパラパラと帰っていく。最後の一人になっても、読書に集中。
「綾衣さん」
呼ばれたことに気づかない。
「綾衣さんってば」
「ん? 飾絵。帰り?」
「一緒にどう?」
「いいよ」
綾衣は本を閉じると、ロッカーから荷物を出してそこに仕舞った。
「何読んでるの?」
飾絵が聞いた。
「フッサール」
「現象学?」
「うん」
「いいよね。あの時代の独文は、かたっくるしくて」
「術式みたい」
「違いない」
電車までの10分ばかりの時間を惜しむように二人は話した。
真珠市の近くに住む綾衣は電車に乗り、飾絵は逆方向の電車で帰った。
綾衣は「真珠市七番」駅で降りる。七番は真珠市から四キロほど離れた住宅地。高級とは言えないが住み続けるのは簡単ではない。実力者が平凡に霞むような、野生味のある土地柄だった。時刻は9時を回っていた。
「こんにゃー」
菜故譲りの挨拶。モンゴル料理屋に入る。
「いらっしゃい」
「お父さんは?」
「今日はまだ来てないよ」
店主は言った。
「一人か。まあそれもいい」
「何飲む?」
「ミルク茶」
「好きだねえ」
「あと羊タンサラダ。モンゴルカレー」
「いつものだね」
店主は厨房へと下がった。
カランと音がして後ろの扉が開く。
「ああ、楊さんじゃん。你好」
「你好你好。綾ちゃん、今日はお父さんいないの?」
「仕事みたい。さっき連絡があった」
「片手の単語帳が魔術書みたいだね。それしかも、高校レベルじゃないでしょ?」
「あんまり気にしたことないかも」
「結構結構」
またカランと扉が開いて、常連さんがやってきた。
「綾、おつかれー」
「おつかれー、麻依さんいつもながら綺麗」
「綾、結婚しよう」
「ぜひ」
麻依と呼ばれた女性、年齢は29。綾衣が言うだけあって、かなりの美人だった。私立筆頭の冷英大出身。才媛と言うに相応しい。
綾衣も麻依も背が高く、ヒールを履かなくとも170はある。かなり仲がいい。連れ立って真珠市に遊びにいくこともある。
麻依は、恋愛するのが嫌で嫌で仕方がなく、話す男はみんな彼女に欲しいと思うから面倒で、こうやってニッチな酒場で呑んでいる。
冷英付属の中高に通っていた。冷英の中高は府学ほどの地位にはないが、府学とは違う良き雰囲気があった。麻依の周りには冷英の女の子がたくさんいて、男の子は選択的に排除されていた。タバコは吸わない。酒は呑む。笑顔は極上の可愛さだった。
かなり稼いでいて、綾衣にかなり高価な時計を贈ったこともある。
国立の府学や第一学府のカリキュラムと私立の冷英のそれはかなり隔たりがある。
国立は実力主義的で専門性に富み、私立は教養主義的で品格に重きを置いていた。
ファッションが違うと言うのだろうか。確かに、二人のファッションは違った。
制服の着崩し方を綾衣に教えたのは麻依だった。
二人が知り合ったのはこの店で、三年ほど前のことだった。
中学生だというのに一人で、綾衣はカウンターに座り、決まって羊タンサラダとモンゴルカレーを食べ、ミルク茶を飲む。片手はいつも単語帳に添えられていた。
麻依に贈られたフェミニンな時計、散りばめられた石がキラキラと光る。
麻依は大きめの羊肉を頼んだ。
「綾も食べていいよ」
「やた。お腹減ってたんだ」
「この時間まで勉強?」
「麻依さんならわかるでしょ?」
「まあね、と言いたいところだけど、ご飯食べながら激ムズ単語帳に目を通す気分は全然わからない」
「中毒だよ」
と言って、綾衣はパタンと単語帳を閉じた。ミルク茶の入ったグラスを持つと、恭しく麻依のグラスに近づけた。
「あい、乾杯」
麻依は牛乳ワインをくいと飲み干した。
「も一杯!」
麻依はグラスを掲げた。
「はい、羊タンサラダ。麻依さんグラスもらうね」
店主がとんと皿を置いた。
「いつ食べても美味しい」
「綾、好きよね」
「好き。飾絵くらい好き」
「彼氏だっけ?」
「友達」
「友達か。そういえば今度の休み空いてる?」
「麻依さんの誘いは断らないようにしている」
「参崎にランチでも」
「お、デートのお誘いですね?」
「綾くらい可愛い子が彼氏だと、他の女が気にならないんだよな」
「はい、モンゴルカレー」
店主が綾衣のところにカレーを置いた。
「羊は至高」
綾衣はカレーの中にある羊肉をもぐもぐする。
「綾、可愛いな」
「はい、牛乳ワイン」
麻依は、チャンスンマハをよく噛みながら、牛乳ワインを喉に流す。首筋を震わせアルコールを堪能する。
カランと扉が開いた。
「綾衣」
「おとーさんじゃん。おつかれ」
「麻依さん、いつもありがとう」
「いえいえ、こちらこそ」
「じゃ、私、先帰ってる」
「え?」
麻依はびっくりした。綾衣は父親との時間を大切にする派閥の人だと麻依は思っていたのだ。
「家でコーヒー飲んでる」
「勉強するの?」
「蛍雪の功は裏切らない。放課後本読んじゃったから、取り戻さないと。お父さん、お会計お小遣いから引かないでね」
「無理するなよ」
「無理なんかしたことないよ、おとーさん。おつかれぃ」
真珠市七番。彼女のフィールドだ。飛ぶように駆け、人目を引く。
「綾ちゃんじゃん、おつかれー」
「おつかれー、と、今日はノンアルカクテルの気分ではないよ、また遊びに行くね」
飲み屋で働いている女の子から、綾衣は絶大な人気を誇る。手を振れば振り返す。上品とは言えない街で、綾衣は楽しく過ごしている。
路地に入り、浮遊するように足を運び、マンションの門をくぐる。
ふと後ろを振り向くと、遠くに真珠市のビル群がそびえ立っていた。綾衣はもう一度振り向いて、髪をかき撫でる。
「いい街じゃん」




