七十五章《三部》
「制約の言語回路」七十五章《三部》
先日の手紙の後、緻里の研究室に言雅から手紙が送られてきた。
「そういえば第一学府でコロキアムがあるね。翌日は一日空いているんだ。もしよければ食事でも」
連絡先が末尾に添えてあった。
「それは都合がいいですね」
緻里は言雅に電話した。
【三部・島国の異能と大陸の術式の相違】
「まさか、後輩のこんなイベントに捕まるなんて、思わなかったな。《都合がいい》とのたもうた。はぁ、君さ……まあいい。私も大学教員だから、わかってるさ」
言雅は壇上でも声色が変わることはなかった。
「西都大学文学部文学史研究科の准教授、言雅さんです」
言雅の紹介に拍手が沸く。
「私は府京にいたから、府学のことは、まだ少しわかる気がする。みなさんは、旧制中学とか、旧制高校のような、響きのいい肩書きを持っている。お名前は?」
「綾衣といいます」
「僕は飾絵です」
「か、か、か、彼女さんですか?」
菜故の言葉に講堂は拍手に包まれた。「菜故と申します」
「言雅です。残念ながら、彼女ではありません。菜故さんは? 元カノか何かで?」
「ただの同期です、残念なことに」
「彼にはそういう女の子が多いみたいですね。どうでもいいことか」
「緻里くんには、高校時代、西都大学に行った嬢憂さんという彼女がいまして……」
「嬢憂さんね」
緻里は手がつけられないとばかりに天を仰いだ。「知ってますよ」
「え?」
「いや、そんな広い世界でもないだろ、何年か前に話した記憶がある。医学部の。彼女?」
緻里は手を振って否定した。
「あー、お嬢悲しむなぁー」
「君は悲しませてばかりだ」
***
そういえば、と前置きして、言雅は本題に入った。
「そういえば、君の大陸術式というのは、異能とは違うんだよね?」
「たぶん」
「どういう点が違うんだろう? 例えば、私が使う空間に対する働きかけは、異能に分類されるだろうから」
「昔、言雅さんとちょっとやり合った時」
ざわっと空気が逆立つ。
「いつの話だよ」
言雅は冗談にした。
「僕の体に働きかけるには、大陸の文字でいっぱいだというようなことを言っていた気がする。今もですか?」
「今もか? あの時はほら、やり合ってたから、私も本気だったしな。できることとそうじゃないこともわかる。あの時は空間を爆縮させることにハマってたから、それができないのが悔しくて。……今もそうだよ」
「それがわかるのが、言雅さんの異能なんじゃない?」
不服そうに言雅はうなる。
「私は空間に文字の渦を見ている。それは君が風を空間に感じるのと同じな気がする」
「見るんですね」
「感じる、の方が好みかい?」
いかにも府学好みする切り返しに、別に面白くもなんともないのに、笑いが漏れた。
「言語回路という点では、言雅さんの異能も僕の大陸術式も大差ないです。でも、僕には空間を爆縮させることはできないし、言雅さんも、索敵や解析といった、汎用性の高い術式の運用はできない」
「なんかそう言われると悔しいな。まあ、そうだね」
「言語回路と異能は、組み合わせることができるんです。例えば、雷の落下位置の座標を、異能感覚ではなく、言語数学的に定めるとか」
「ふうん、便利だね」
「言雅さんは、島国の言葉で異能を管理している」
「管理とは大仰に言ったね。ということは、君は大陸語で術式を操作しているのか?」
緻里はうなずいた。
「とんだ国際人だな。阿倍仲麻呂か?」
言雅は呆れたとばかりに天を仰いだ。
「島国の言葉で、新しい術式ができないでしょうか?」
言雅はしばらく黙った。指を小刻みに動かして手元を見ていた。
「それにはあまりにわびしい言語になってしまったからな」
「もしかして、言雅さんは、西国方言で空間に働きかけているの?」
「君さ、昔からそういう後輩だったけど、思いやりというものがないな。年上には何言ってもいいと思ってんだろ? そうだよ。私には私の音感があるからね」
「音楽的なものなんですね」
「一面的にはね。あまり詳しくないけど、大陸だって昔、文学は韻文だったんだろ?」
「韻文を操れる人が上級官僚になったのは事実です。でもそれが何を意味するのかは……」
「平安貴族も詩歌を嗜んだ。同じだね」
***
「Si chunさんって知ってる?」
「え、?」
「数年前に助けてもらったというか、御笠さんが連れていた大陸の人。捕虜だったのかな」
「知ってますよ」
声音は落ち着いていたが、緻里の心臓は飛び上がりそうだった。「思純さん」
「あの人の異能はすごかったよ、あれは、術式だったのかな」
「思純さんは、僕の大陸時代の高校の同学です。物質生成の魔法と、卓越した術式を使う。はは、すれ違ってばかりだ」
その言葉を、言雅は追及しなかった。
「ああ、散漫としちゃったよ。異能と術式の違いだっけ?」
「言雅さんの中では、答えが出ている?」
「私からすると、術式の方が異能的だ。言語でイメージを具現化する。それは精神的なもののはずだろう? 私が言うのもなんだがね。君が一番わかってるんじゃないか?」
「精神が空間においてどのような存在であるか、言雅さんはどうお考えなんでしょう?」
綾衣は閉ざしていた口を開いた。
言雅はにこりと笑って言った。
「それはつまり、精神の存在論だね?」
「そうです」
「愕然とするね。私にそれについて答える資格はない。精神を言語が媒介する。とかそういう説明は、精神が本当は存在しないことを否定し切ることはできない。あるいは、私たちが精神と呼んでいるものは、唯物論的にではなく、空間に確固として存在するのかもしれない。だから私たちはこの世界で、術式を編み、異能を働かせる。愕然とするね」
パラパラと拍手がした。言雅の言っていることを、わずかでも理解できた生徒が、手を鳴らしていた。
「精神が精神という形で存在するわけではないということですか?」
綾衣は質問を重ねた。
「精神が存在していないとか、むしろ空間に精神が存在しているとかは、現在のこの世界の精神の在り方に対する懐疑だ。そしてそれらは意味上同じことを言っている」
綾衣はしばらく考えて、また口を閉ざした。
「精神は自然現象として人間に備わっているものということですか?」
飾絵が聞いた。
「自然現象、いい表現だね。物理現象と言わないところに好感を持つよ。美的に、世界が構成されている」
「美的に」
「そう。そう在るように存在する」
ほとんどの生徒はちんぷんかんぷん。脱落していった。
「飛ぶための翼のように」
綾衣は言った。
***
乾杯。緻里は言雅とグラスを重ねた。
「コロキアムお疲れ様でした」
「君ねぇ」
「はは、すみません」
「もう歳だよ」
「言雅さんは、変わらない。黒い髪と黒い瞳。昔も今も、全然変わらない」
「髪、染めてんだよ」
髪をすくってぱらりとはなした。
「嘘だぁ」
「君、もう結婚したのか?」
「言雅さんは?」
「ひどいな、先に女に言わせるのかよ」
指の腹を上に向けて非難する。
「僕はまだ結婚なんて」
「どうしてさ、好きな人がいるんだろ?」
「好きな人……」
「あんまり変わってないんだな」
言雅は、もきゅもきゅと肉を喰み、ワインを喉に通した。「あれだよな、私が君のこと好きなのが透けて見えるから、侮ってんだろ?」
「そりゃ僕だって好きですよ。尊敬していますし、でもあの時はそれがよくわからなかったから」
「今は? 今はどうなんだ?」
「今はもう、今のままでいい」
「自分の体に女を通り抜けさせるのが嫌なのか?」
「そんな挑発されても、結論は変わらない」
言雅は笑った。
「わかったよ。君に期待するのはやめる。嬢憂さんと傷を舐め合うさ」
「我期待的不是雪-Wo qi dai de bu shi xue-」
「どういう意味?」
「僕は、雪のように儚いものに期待はしない」
「美しい音運びだと思うよ。魔法でも使っているのかと勘違いしてしまう。耽美な言語だな」
言雅はまたワインを一口飲んだ。




