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七十四章《二部》

「制約の言語回路」七十四章《二部》


【二部・言語情報研究局での研究】


「今回のテーマは緻里くんの大学での研究」


 菜故が口火を切った。


「僕が大陸の高校で習った、術式というものを主に研究しています。その傍ら、大陸語の特に北城方言という標準語の音声的解析も」


「術式というのは、大陸人の誰もが使えるんですか?」


 飾絵が聞いた。


「高度に使える人の数は、かなり限られているだろうと思います」


「一体どういうものなのかにゃ?」


 菜故は聞いた。


「言語を媒介とする精神と空間の共振」


「すごーく難しい」


 オーディエンスの笑い声。


「共感して共に涙を流すなんてことがあると思うけど、それのもっと形式的なものです」


「言語で世界に働きかける」


 綾衣がつぶやいた。


「まさしく」


 緻里が返す。「術式の概略は、イメージと演算に大別される。それは、全て言語で行うこともできるし、数式を織り交ぜることもできる。例えば」


 と言って緻里は一呼吸置いた。「例えば、今日一日の点数をつけてみよう。菜故さんは?」


「90点」


「綾衣さんは?」


「41点」


「飾絵さんは?」


「同じく41点です」


「点数の根拠が今日という日のイメージであり、点数は術式における言語です。その点数がイメージを支えて、自分の中でイメージが強固になる」


 緻里は言った。「イメージと言語を繋ぐのが、内的な術式の初歩だね」


「内的な術式とおっしゃるなら、外的なそれもあるんですか?」


 飾絵が聞いた。


「術式は電波みたいなもので、相手が術式を使っていたら、それに干渉したり、分析したりできる。まるで数学の難問をゼロコンマ何秒の世界で解析するみたいに」


 数学の難問と聞いて、府月のオーディエンスは拍手を送った。わくわくした顔を見せる。


「第二中高というところで習った術式は、算術的なものと、詩吟のような文学的なものがあった。算術的なものの代表は、座標の測定。相手の位置を知ることです」


「それがイメージということですか!」


 飾絵は誰よりも早く感嘆符をつけた。「科学技術的なものではなくあくまで、あくまで……」


「文学的と僕は呼んでいます。僕が何を言いたいのか、気づいたんですね。文学的・精神的な像を結ぶ。あくまで人間的に」


 飾絵はうなずいた。


「アナログでありデジタルでもある。イメージであり、言語であるという点で」


 綾衣は手を挙げて質問した。


「うまく理解できないのですが、それは《人の声》を聴いているということですか?」


 緻里はしばらく眼を開いた。言葉のない間を、徐々に拍手が埋めていく。


「例えば、僕はこの講堂に、正確に何人人がいるかわかります」


 それが緻里の答えだった。確信的なことを言うと、それこそが術式の文学性を損ねることになる。「見るわけでも聞くわけでもなく把握します。そこには植木算のような子供じみた細工がたくさん施されています。僕の論文には文語や術語で暗号のように仕立てていますが、結局は素朴なイメージと、それに近づくための率直な言語操作です」


「緻里くん。それ緻里くんくらい頭良くないと使えないよね?」


 菜故は緻里をにらんだ。


「これに入れ込んだから、高三の成績は散々だったよ」


「魔法と何が違うんですか?」


 綾衣は切り込む。


「言語を翻訳することを考えてください。みなさん全員が、巧みな翻訳家になれるわけではありません。翻訳家の技術を獲得するための努力は、計量可能でないという点で、魔法と違いがありません。彼らは演算し、文学し、時に表現を創造している。そうではないですか?」


「実現不可能性という点で、魔法なのではないですか?」


「過去において魔法だったものが、現実化した例は数多あります。そして言葉は進化します。ここで言いたいのは、コミュニケーションのツールとしての言葉ではなく、世界に働きかける《影響》としての言葉です。働きかける主体でも客体でもあり得ません。そういう哲学の記述を読んだ時は感動したものです。まだ術式が表に現れない魔法だった時代に、哲学は《影響》の存在を予測していた」


「先生は、主体と客体の間の《影響》に《人格》のようなものを差し込んでいるんですか?」


「ははは」


 笑い声は伝播した。質問した綾衣も笑い、飾絵もつられて笑った。菜故はなんで二人が笑っているのか、ピンときていなかった。


「すみません、はは。そうですよね。哲学の存在する理由は、新しい知の創造、ですもんね、こわぁ」


 綾衣は言った。


 聴衆の中でわかった人は、少なかった。でも何を言っているかわかった人は、そのニュアンスに、そういう形でしか表現できない、現時点における限界を見て取る。


「できないことの理由を探す過程で、哲学も文学も、ほとんどのことはできると主張する。言語哲学が、世界を言語だけで分節したように。その真偽が問題なのではなく、そういう深さが、ある分野で結晶したということです」


 飾絵が手を挙げた。


「緻里先生のお話は、哲学と文学をどう腑分けしているんですか?」


「理論と実践。どちらも欠けてはいけない」


 拍手が鳴った。


***


「あなた、楽しそうですね。府月は、変わっていなかったですか?」


 紫は緻里に聞いた。ホットミルクをことりとテーブルに置いて、本を読む緻里の気を引いた。


「まあね」


 緻里の生返事に紫はじとっと緻里を見た。緻里は視線に気づかない。


「まあねとは、わたくしも安く見られたものです」


「そうだね」


「そうだね?」


「あ、いやごめん。本読んでた」


「知ってます。もう知りません、寝ます。ゆっくりホットミルクを飲んでるがいいです。はぁ」


「……」


「あなた、私と喧嘩したいんですか?」


「え?」


「なんでもないです。諦めました」


 紫は寝室へと階段を上がっていった。「倦怠期ですかね」とため息。


 緻里は夜遅くまで勉強していた。


 府月生の熱量に感化されたことと、綾衣や飾絵の発言に示唆を受けたことが、緻里の意欲を増幅させた。


 大陸語で書かれた術式に関わる詩文を、せっせと暗記して、自分の術式に組み込む。


 緻里はその時初めて、島国の言葉を使わず、大陸語で術式を構築していることに気づいた。


 論文には大陸語の詩文や語彙が使われていて、だからこそ環永校長は、緻里の論文を難解と表現したのだろう。


 島国の言葉で術式ができないだろうかと思った時に、言雅のことを思い出した。


***


 西都大学の言雅の研究室に、手紙を書いたのは、それからしばらくしてのことだった。


 返事はすぐに帰ってきた。「懐かしいね」から始まっていた。大学中心で先輩として仰いだこと、その風景が蘇ってきた。言雅の孤高さが緻里も懐かしかった。


「言情研、そんなところにいるんだね。御笠さんが亡くなったのは、本当に残念だよ。私も彼と同じく府京出身だったから、大いに悔やまれる。……私に島国の術式を? 冗談はおよしんす笑。君から手紙をもらって、君の論文を見てみた。なかなか楽しそうなことをやっているじゃないか。それにしても、君がどこに行ったのか誰も知らなかったが、こういうふうに生きていると知らされると、少し胸が熱くなるよ。本当によかった」


 言雅の書く字は、筆圧が濃いのに細身で、隙間が広かった。


「女の人からの手紙ですね?」


 ハッと顔を上げると、紫がゾッとするような表情を浮かべていた。


「昔の知り合い、です」


「にまにまして、いやらしい」


「いやらしいなんてことない。普通のことだよ、半分仕事のようなものだし」


「昔の知り合いほどタチが悪い人はいません。いつの頃の知り合いですか?」


「大学時代の、先輩ですけど」


「仲良かったんですか?」


 どんどん締めつけていく。尋問だった。


「そこそこね、手紙が気になる?」


「いえ別に。御笠さんもそうでした。やっぱり似てますね。そういう《色づかい》わたくし嫌いじゃないですけど」


「散歩でも行く?」


「それもいいですね」

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