七十二章《菜故》
「制約の言語回路」七十二章《菜故》
緻里が勤務している言語情報研究局に、懐かしい人が遊びに来た。
「緻里くん」
「環永先生」
緻里は研究室を訪れた、環永という府月の校長に挨拶した。
「忙しかったかな?」
「大いに暇です。学内のカフェでも」
「いや、ここでいい。辰柿局長は?」
「じきに戻ります。どうされました?」
「緻里くんの書いた論文を拝見した。君だけが秘密を持っているのは、フェアじゃないな。ぜひ府月の後輩たちにも共有してくれないか?」
環永は、そこでいくつか緻里の論文に関する質問をした。
詩吟という形での、空間に及ぼす術式の、文学性・数学性。和製術式としての虚無の言語回路。緻里の研究。
府月の生徒に、特別講習を行なってほしいということだった。
そっけない研究室の長机に、学生がコーヒーを用意した。
「大学の研究室のどこにでもある粗末なコーヒーですが」
「どこも変わらないな、緻里くん」
「先生は今、一組を担任されていらっしゃるんですか?」
「今は校長だ」
緻里は目を見開いた。府月の校長とは、大学で言うなら学部長に等しい職位だ。
「先生が作る高三の時のテストを思い出します。嬢憂にボロボロにやられてしまったあのテストを、先生はもう作られないんですね」
「私もそれは残念だ。生徒をいじめるのが好きだったんだがね」
「そのようで」
くくく、と緻里は笑った。
キキィと扉を開ける音がして、研究室に辰柿が入ってきた。
「環永さん?」
「どうも辰柿局長」
「どうしたんですか?」
辰柿も、環永には敬語だった。年齢的には辰柿の方がやや上。それでも府月の校長は、特別な地位だった。
「緻里くんの論文の話を聞きたくてね」
院生が長机に辰柿の分のコーヒーを置いた。緻里も茶菓子を机にパラパラと散らした。
「大陸に留学した後の腑抜けを思えば、緻里くんはここで、凄まじいことを成し遂げようとしている、気がする」
「私もそう思います」
辰柿は同意した。
「我流ですけれど。師匠がいないのが悔やまれます、と、そういえば先日淑英先生の本を買いましたよ」
「なんかいい記述でも?」
「僕の論文も大概ですが、大陸の術式講義は、実学というより観念に傾倒していて、例えば宇宙とか存在とか魂とか、そういう議論がずいぶん多い。たぶん一人二人しかわからない暗号なんでしょうね。御笠がいれば一緒に楽しく解読できたのに」
「で?」
「辰柿局長、すみません。緻里くんの特別講義を府月で開催したく。彼をお借りしても?」
「構いません」
「府月でも落ちこぼれの僕が、何の助けになるのかはわかりませんが」
「緻里くんは、謙虚だね。私は、君がレールから最初に抜けたことを本当によく思っていたよ」
「確かに先生は何も言われなかった」
「嬢憂くんに、何か言われてなかったか?」
「嬢憂はいつもああですから」
「努力しても身につかないことはたくさんある。敗北や挫折なんて言葉は君には似合わないけれど、飛び込んだ世界と学び続けた事実は、単なるエリート主義に陥らないための、大切な予防線だったね」
「緻里少佐はエリートですがね」
辰柿が言うと、緻里は苦笑いした。
***
緻里は久しぶりに母校「府月高校」の門をくぐった。
職員室に入ると、知った顔の先生や、教員になった同期が何人かいた。
「菜故さん」
「お、緻里くんじゃーん。こんにゃー」
「こんにゃー」
菜故は緻里の同期。府月で教員をしている。
「緻里? おお、おおお。久しぶりじゃないか。しばらく中国に行っていたと聞いていたけど、捕虜として」
「捕虜として……すみません、ご心配を」
緻里と呼び捨てたのは、歴史科で緻里の第二留学を支援してくれた他書先生。
「今何をしてるんだ?」
「軍人と教員の二足の草鞋で、第一学府の言語情報研究局に」
「びびるなぁ。それはびびるなぁ。まあゆっくりしてってくれよ。今度飯食いに行こうぜ」
「私も誘ってー」
菜故も綺麗な声を上げた。「ほんとさぁ、どこに行っちゃったのかって、みんなみーんな心配してたんだよ、私らの界隈では、お嬢にざっくりやられた説が濃厚だったけど」
「それは間違っていない」
「だよねぇ、お嬢ほんと緻里くんが好きすぎて、まあ私も好きでしたけど?」
「知らんよ」
「いけずー」
「菜故さん、何教えてんの?」
「数学」
「評判いいぞ」
他書先生が言った。
「とんでもない。府月の生徒の理解力の賜物だよー。私はやつらを愛しているからな」
ドヤ顔で胸を張る菜故。
「でもお前、立派になったな、おい」
「そんなことないですよ」
「軍に入っちまうと、消息がとんとわからなくなる。嬢だけがお前のことよく追いかけていたみたいだがな」
「嬢憂は帰ってくる時迎えにきてくれました」
「愛されてるな」
「あいついつも僕に辛辣に当たるから、怖いんですけどね」
「女房気取りなんだよ。とか言ってたら子供できたらしいな」
「らしいですね」
「ふーん、お嬢、緻里くんを諦めたんだ。なら私にもチャンスあるよね? 緻里くんて彼女いるの?」
「いるけど?」
「がーん」
「こんな落ちこぼれと付き合うことないよ」
緻里は自虐した。
「女子はみんなハンサムな君が好きだったよ。私たちは想像したものだよ。大陸で彼女作ったんじゃないかとかさ」
「……」
「やっぱそうか。戦争早く終わるといいね」
***
緻里の講演は三回に分けて行われることになった。
一部「進路及び職について」
二部「言語情報研究局での研究」
三部「島国の異能と大陸の術式の相違」
府月の学生で緻里を知っている人はそんなに多くなかった。しかし大学レベルの研究の一端を垣間見ることができるとあって、講演会への参加希望者は五十人に上った。
生徒代表として二人、綾衣という女子と飾絵という男子が登壇することになった。
聞き手として菜故も場にあずかる。四人の座談会のようなものになろうとしていた。
土曜日の放課後、わらわらと生徒たちは講堂へ集まった。
【一部・進路及び職について】
「こんにちは。僕は、今、第一学府に勤めている、軍人で少佐の緻里と言います」
菜故が拍手すると、生徒たちも手を叩いて歓迎した。
「菜故です。みんなの数学の先生です。知ってるかなー? 緻里くんとは同期でね。よろしくにゃ!」
「壇上の二人の生徒さん、自己紹介を」
「一組一番綾衣です」
「二組四番飾絵です」
拍手が鳴る。
「綾衣さんは、私の視点では数学というより物理の派閥の人。飾絵くんは言語が好き」
「言語情報研究局、広く言語・文化学域は、僕の志望進路です」
飾絵は言った。そこでも拍手が鳴った。
「僕は、今は言情研に勤めていますが、学部は大学中心で学びました。一浪して入ったんです」
「緻里くんはねぇ、本当にすごかった。高校三年になるまで首位は渡さなかったよ。誰にも劣後しなかった。高校二年性で大陸の高校に留学して、あれだよね、堕落しちゃったんだよね?」
「まあ、そうね。堕落というか、学校の科目を勉強しなくなったんだ。術式の運用に心奪われてね」
術式という言葉を、ここで初めて使った。緻里は唾を呑み、それが大陸の異能に当たるものだと補足する。
「結局それが、緻里くんを今の進路に導いた。先生もあんまよく知らんけど」
「大陸術式の運用は第二という大陸の中高の先生に学んだきりで、後は本当に独学で。大陸語を使えることから、軍人を志したわけです」
「まあ大概大陸の姑娘に恋したわけよな」
「上書きしないでよ」
会場から笑い声が漏れる。
「どうして大陸だったんですか?」
綾衣が聞いた。
「どうして大陸だったのか」
「はい」
「一言で言うのは難しいというか、それに答えられることは一つの奇跡に近いですね」
「それは、どうしてでしょう?」
「理由がないから。あるいはそれが、小さな理由の集合体だったから」
「小さな、理由」




