七十一章《不在》
「制約の言語回路」七十一章《不在》
「姐さん、髪伸びましたね」
「それ、うちも思った」
狂翠と花籠の提言。
「髪、切るかぁ」
ダルダルの日常。明日やることも特にない。完全なニートだった。
何週間か鬱が続き、その間は花籠の料理に助けられもしたが、その鬱が過ぎると、なんとなく穏やかなニートの日常が待っていた。
花籠の美容院を紹介され、花籠と一緒に切ってもらいに行った。
車に乗るといつも、眠くなってしまう。
「寝ててもええよ」
「いつもごめん」
「ええんよ」
行ったこと、犯した罪に比べて、科された罰は、手ぬるいような気がした。こんなふうに緩やかな人生でいいなら、殺し得だとすら思う。
別に勧善懲悪の殺しをしたわけではない。赦される理由なんかどこにもない。
穏やかな陽気の中、窓を開けて、車が風をはらむ。花籠は口笛を吹いて上機嫌。
「凛には故郷はないの?」
「忘れた」
「忘れたて、……どんな子供だったとか」
「そうね、いつも思い出すのは、ひどく孤独だったってこと。ひどくてさ、嫌なことばっかりだから、すぐ殺すことを覚えたよ」
「殺す?」
「例えばの話」
「ああ、例えば、……? まあええんやけども。頭よかったんやろ?」
「勉強に逃げるのは陰キャの常套手段だから」
「それにはウルトラ同意」
「孤独が黒いインクだとしたら、血液はすっかりそれに入れ替えられたんじゃないかな」
「不思議な例え。だとすると、うちの貧弱な解釈からすると、凛はもう人ではないよ」
凛咲は笑った。
「自慢できないことだよ。もう畜生なのかもしれない」
「凛は、人を殺したこと、あるの?」
「失望した?」
「失望、なんて言うんやろ、そんな簡単に人って殺せるの?」
「関係する人を一人も残さないことがコツ」
「いや、聞いてないし」
花籠は動揺せず車を運転する。笑い話なのだ。
「普通だよ。私に特別なことなんてないと、最近は思うよね」
「普通ってことないやろ、うちからしたら雲上人や。凛は、どうやって西都大に受かったん?」
「覚えてない。忘れた」
***
髪を切ってもらって、喫茶店でお茶をして、本を何冊か買った。
花籠は建築関係の書籍、凛咲は小説を二、三。
「花籠、建築好きなの?」
「建築科だったから。うちはいつか、自分の家を設計する」
「いい夢だね」
「せやろ?」
「せやな」
「凛は、なんか夢とかあるん?」
凛咲は首を振った。用意していたような返答で、花籠もびっくりの速さだった。
「ないよ、大したことは、何もないよ」
「もったいないなぁ」
花籠はつぶやきながらハンドルを切る。
「もったいないことなんてないよ、私なんて」
その後の言葉はなかった。
「眠ったんか」
花籠は凛咲を助手席に置いて、車で帰路についた。
*
もったいないことないよ、私なんて
*
それに続く言葉が何だったのか、花籠は知りたかった。
凛咲の香りが車に立ち込める。穏やかな顔で目をつぶって、冷たくなった体が、朽ちゆか木のように今にも崩れ去りそうだった。
凛咲の息が止まっていることに気づいたのは、車から降りる時だった。
はぁぁとため息をつき、花籠はその車で凛咲を乗せて病院へ連れて行った。
病院では迅速に死亡の認定がされ、亡骸は直接火葬場へ送られた。
「アホやなぁ、ほんまにアホ。そんな人生ないやん。まるで死ぬために生きるみたいな、どうしてそんなことになってしまったんやろ?」
火葬場から帰った花籠は、凛咲の死を狂翠に伝えた。
「そうですか。姐さんの家にはもう行けないんですね」
「行ったらええやん」
「僕はいつも姐さんに会いに行っていたんです。勉強なんてただの口実ですよ」
「狂翠は、死が何を意味するのかわかってないやろ」
「わかるわけないですよ、どういう意味なんですか?」
「不在を彩るには、花が足りない。たとえどんな花でも、たとえどんな言葉でも、どんな壮麗な墓であったとしても、不在を完全に彩ることはできひん」
「どんな言葉であっても」
いつの間に僕らは哲学をするようになったのでしょう。そう言って狂翠は笑った。まぶたが描くアーチの端で、雫が玉になってこぼれた。哲学で紛らわそうとしているんでしょうか。意味を見出そうとしているんでしょうか。もうここには何にもないのに。
「もうここには何にもないのに」