七十章《甘えてもいい?》
「制約の言語回路」七十章《甘えてもいい?》
世界から色が消えた、というのはあまりに手垢のついた表現だが、逆に生命力みたいなものを「じかに」感じ取れるようになった。鉛筆で描かれた棒人間の、太さや濃さが、「じかに」目に入ってくる。凛咲の目に涙はなかった。
失ったことを理解した。俊速と名のつく異能も、もう発動しない。周囲の動きが「読めない」のだ。
座標を空気感で測定し、高低差と距離を感覚で押さえて、いつもいつも俊速を発揮してきた。その感覚は、もう二度と蘇らない。
景色が変わったという方が正しい表現かもしれない。かつて矮小だった人々に、謝りたい気持ちだった。凛咲の剥ぎ取られた仮面の下の顔は、生身の人間の顔だった。凛咲もまた御多分に洩れず矮小だった。
入院した「セキレイ病院」の医師の診察を受ける。身につけていた財布を渡された。
「西都大学病院の神経科の先生に連絡をとりまして、凛咲さんの診療情報を送っていただきました」
「嬢憂先生には悪いことをしたな」
「嬢憂先生からもお電話いただき、脳神経的な傾向から、どうも精神疾患であることは確実であろうとお話しいただきました」
「精神疾患ね」
「寛解に数年はかかるでしょう。長くなる場合は十数年。脳細胞が焼き切れています。記憶力、思考力、判断力が、おそらく思った以上に制限を受ける、ことになります」
凛咲はうなずいた。
「金銭的な補助の手続きを取るのも、一つの手です。ご家族は?」
「理解のない人です。巻き込むだけ無駄かな」
「社会的な病の側面もあります」
医師は差し添えた。
「でも住まいはありますから、それに、友達も」
「診察の後、面会されますか? いらしてますよ」
「よければ」
医師は狂翠の応急処置の話はしなかった。
「薬を飲んでください」
「それ飲むと、どうなるんですか?」
「脳の暴走を抑えます。幻覚や妄想、幻聴を抑制し、脳神経の回復を促します」
「はあ」
「薬を飲むことが、いつも通りの生活を取り戻す、急がば回れ的な方策です」
「回らないとどうなるんですか?」
「最悪自殺します」
凛咲は目を見開いた。
医師は一通り薬の説明をした。そして付け加えた。
「西都大学の学生さんなら、ずっとずっと優秀で、明晰な頭脳をお持ちだと思います。太陽が雲に隠れるような日々が、これから数年のほとんどになるでしょう。それはあなたのせいではありません。あなたの脳のせいです。努力で何ともならないし、怠けなわけでもありません。そういう日を、毎日薬を飲んで耐え忍ぶ、それも凛咲さんならできると、私は思います」
凛咲は笑った。
「先生はどうしてそんなことがわかるんですか?」
「事実みなさんそういう道を歩み、そしてどこかで間違えます。本来そのタスクは常人には耐えられません。凛咲さんは、常人ではない。特別だということがなんとなく私にはわかるんです」
「先生饒舌ですね」
医師は首を振って否定した。
「きっと今言ったことも、忘れようと思わなくても、記憶に残らないでしょう。そういうものですから」
医師は席を立ち、変わって花籠が入ってきた。
「狂翠は?」
「学校」
「そだよね」
花籠は、カバンから飲み物を取り出して凛咲に渡した。花束みたいにたくさんの種類があった。
凛咲はオレンジジュースを選んだ。花籠もそこからミルクティーを取り、ボトルを合わせて乾杯した。
「悲しい顔してるね」
凛咲は、なんとなく花籠の沈鬱な表情に、何かを言おうという決意を感じ取った。
「西都に、未練はないん?」
「そんな資格私にはもうないよ」
「きついかもしれんけど、戻った方がいいと思う。だってこのまま、凛が、こんな田舎で埋もれていくなんて、うち耐えかねるわ」
「花籠、それは」
「先生は何もうちには言ってくれへんし、きっと凛も、うちに言ってもって思って何も言わんのだろうけど、大学に浸るだけで救われるもんもやるやろし。もったないよ、西都大なんて」
「ごめん。うまく考えられない」
「こちらこそごめん」
花籠は何冊か本も置いていった。凛咲にそれを読む気力や能力はもう剥奪されていたけれど、花籠の心遣いは胸に染みた。
看護師に付き添ってもらい、タバコを吸わせてもらった。看護師とはほとんど話さなかった。体が重い。タバコは不味い。頭痛がする。眠りたくもないのにこんこんと眠り、食事のために起き上がるのも、ひどく億劫だった。何日も入っていない風呂にも、足が向かない。
退院の日は花籠が車を出してくれた。特に荷物はなく、花籠は言った通り入院費を支払った。
「後ででいいし」
「ありがとう」
助手席でも凛咲は眠った。安らかにではなく、ぐったりとして。顔色は土色だった。
***
狂翠が、高校でかなりいい成績を残しているらしいことを、たまたま狂翠の母親と話して、凛咲は知った。
タバコを吸わせていることは、たぶん母親も知っているのだろうけれど、それは言及されなかった。
「お世話になってます」
凛咲はぺこりと頭を下げた。
「よく凛咲さんのことを話題にするの。すごく素敵なお姉さんって」
「はは、とんでもない」
「塾も遠くて、勉強も適当な子だったのに、凛咲さんのおかげよ。ありがとう」
「私は何もしていません」
凛咲は頭を下げて、買い出しに出かけた。
食材の買い出しもそうだが、タバコやコーヒーの補充も怠らない。
家に帰り、簡単に食事の準備をする。湯を沸かし、スパゲッティを茹でる。
一日一食しか食べない。でもどうしようもなくお腹が減るから、スパゲッティはいつも大盛り。ガリガリだった凛咲はむしろ、体に少し肉をつけた。
狂翠や花籠が家に来ると、家事をやろうという気も起きる。
「これ、母さんからです」
狂翠はお菓子や野菜を段ボールに詰めて定期的に持ってきてくれるようになった。
「ありがとう」
「姐さん、勉強しないんですか?」
「そうね、なんか集中できなくて」
「それは倒れたから、その後遺症とか?」
「先生はそう言ってた。気にしないで」
紅茶の香りが部屋に漂う。こぽこぽと湯がティーポットに注がれる。しばらく蒸らしてカップに紅茶を入れる。ミルクと砂糖を用意して、凛咲は紅茶をテーブルへ、狂翠からもらった菓子と共に置く。
なんとなく、様になってきたなと、凛咲は思う。狂翠が勉強している参考書を見ても、「そんな感じ」がした。
***
狂翠はある日ポニーテールをバッサリ切って、短髪にした。
「失恋でもしたの?」
「これからまた伸ばそうと思って」
狂翠は笑った。
「やる気ってこと?」
「うん」
「どこにするの?」
「大学中心」
「難しいと思うけど」
「でも頑張る」
「そう」
凛咲はティースプーンをシンクへ放り投げた。カランといい音がした。
「狂翠、あなたに少し甘えてもいい?」
「いいですよ」
「私が机に突っ伏して眠っている間、狂翠に勉強していて欲しいの」
「起こさなくてもいいんですか?」
「あなたが、私が寝ている間も、勉強をしているんだってこと。それが私を安心させる」
「ペンの走る音が」
「そうね。安心する」
凛咲はもう、狂翠の目をまともに見ることができなかった。




