七章《藝適》
「制約の言語回路」七章《藝適》
能力を持つ学生を対象に、中心では特別のカリキュラムが組まれていた。
緻里の通っていた高校でもそういうことはあったが、中心のカリキュラムに適合する学生は、そう多くないみたいだった。
ただ、中心は国立大学であり、外交状況は芳しくないことから、強い能力者は強制的に選抜された。
緻里は下位クラスに所属することになった。今の緻里の天候に影響する能力は限定的なため、下位クラスもやむなしかと肩を落とす。
ただ、緻里のその構えはむしろ謙虚で評価されるものだった。緻里はそうは思わないが、地元では家柄もよく、能力も遺伝した「田舎者」は、自分が持つ能力の相対的な位置を理解していなかった。野心や功名心があり、粗野で軽薄。
それは男でも、女でも、だった。
上位クラスは一学年で十人ほど、下位クラスは二十人あまりだった。
緻里が直感したことは、それが中心の能力者の全貌ではないということだった。
緻里はかつて能力が横溢していた頃の、凄まじいほどの自然への影響力を覚えていたから、今大したことができなくても、中心の学生たちのレベルがそこそこなことをわかっていた。上位クラスの面々も、緻里にとっては実にそこそこで、たぎっているのを見ると、不意に笑ってしまいそうになる。
緻里は教授との面接で、訥々と話し、印象に残らないように努めた。
「何が君の能力か教えてもらえるかな?」
「雨を降らせることができることがあります。雨乞いのような」
「君の高校の調査書に書いてあることについては? 例えば霰を降らすとか、嵐を呼ぶとか」
嵐を呼ぶと聞いて、教授人の一人は笑った。
「そんなこと、代風先生くらいしかできないでしょう」
代風、それは緻里の父親だった。緻里は動揺することなく笑みを顔に貼り続けた。場数を踏んでいるから、顔に出ることはない。
大陸に留学していたことは、書かれていなかったのか問われなかった。
一人何も言葉を発しない先生がいた。斜を向いて考え事をしている風だが、チラチラと緻里に視線を向ける。
その先生は比較的若く、面立ちはやや痩けているが精悍で、メガネをかけていた。
「藤墨先生は、何かありますか?」
真ん中にいた教授はそのメガネの先生に話を振った。
「私は、藤墨と言います、緻里くん。文学部に所属しているのは、何か理由があってのこと?」
「言葉に興味があって」
「言語では何もできない時代だ。外国に行ったことは?」
「大陸に」
ほう、と教授陣は身を乗り出した。
「大陸語が話せるのかな?」
「おおよそ」
「そうか。いいことを聞いた。また会えるといいね。ありがとう」
緻里は藤墨の笑顔を見て、不思議な気持ちになった。何を言われたわけでもないのに祝福されたような気がした。
のちに緻里は、藤墨の学術書に、紀貫之の古今和歌集仮名序を見た。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。……力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。……」
言葉では何もできない時代だとは、よく言ったものだった。
図書館の外づけの階段を、カンカンと音を鳴らして登る。金属なのに錆びないのはどうしてかわからない。海風は大学になびいてくるというのに。
船が汽笛を吹きながら、ゆっくりと近づいてくる。港の空気は暖かく清澄だった。
港の見える踊り場では、仲の良い男女が気の置けない時間を楽しんでいる。緻里は図書館に入り、適当な席を見つけて座った。
広い窓は空海の青を窓に映し、緻里はそこで本を読んだ。心地よい時間がずっと続き、緻里は集中のうちに微睡んだ。
さざなみの音が聴こえる。波の上を吹く風が、緻里の五感に訴えかける。まるで泳いでいるかのようだった。
本に日が当たらないように突き出たひさしは、高い太陽の光を受けて影を作っていた。
遠くに学生の話し声。注ぐ光が波間できらめいている。風が熱を運ぶ。
いい大学だと、むにゃむにゃしながら思う。
寮の窓は海ではなく山に向いていて、ちょうど今は山の花々が緑の中で紅く誇っていた。
天気は雨で、うんざりするほどの湿度に、緻里はエアコンをつける。
こんなんだったら外に出た方がいいかなと、顔を洗い、身支度を整え、思純のくれた傘を持って外に出た。
雨に浸されたレンガ模様のキャンパスを歩く。やはり汽笛が鳴っていた。
大学の食堂で昼ごはんを食べ、適当に授業をサボりながら、大陸の論理式を演算していた。
イヤホンを耳にさして「赤伶-Chi ling-」を聴く。等什么君-Deng shen me jun-の「赤伶」。それが好きだった。
雨の中を自転車が走る。急いでいるのかわからないスピードで、その人のメガネは水滴で覆われていた。
雲は厚く、どんな能力も受けつけないという顔をしていた。
雲間に人が見えたのは、気のせいではなかった。緻里が解析すると、確かにそこに熱源があり、それも「悠々」飛んでいる。紅傘をさしながら空を飛ぶのはあまりに無防備だから、緻里は手近な建物の屋上に上った。
共北という教室棟で、まさか雨の中屋上に上がる人までいるとは、緻里には思いもよらなかった。重い扉を開けると、先客が振り返った。
背の小さい男性で、学生のようだった。パーカーを着ている。雨はフードで防いでいるみたいだった。
「こんにちは」
学生は会釈した。発音に少し揺らぎがあり、大陸の出身であることが緻里にはすぐわかった。解析式が学生の周囲に散見された。
「天体観測?」
少し挑戦的に、緻里は大陸語で聞いた。
「そういうわけでもないんだけどね。こんな雨の日に空を飛ぶなんて、風邪をひいてしまわないか心配で」
「空中飛行物体は知り合い?」
学生は首を振った。
「北城市訛りですね」
「それを聞いたら北城市の僕の学友は腰を抜かすか刀で斬りつけにくるよ。北城市は首都だし、それが普通話-Pu tong hua-とされている」
「名前は?」
「僕は緻里」
「私は藝適。江南の港町生まれです。こういう景色は懐かしい。何年も受験で遠ざかっていた港の風景が、私の心を掴んで離さない。緻里は北城市にいたんですね?」
緻里はうなずいた。「一年だけ」
「素晴らしい大陸語です。北城市訛りでなければなお良かったけど」
「藝適は、留学生?」
藝適は瞬間顔色を変えて、笑顔を貼りつけ、「そう。留学生」と島国の言葉で言った。
その振る舞いから、藝適が何かの能力を有していることはわかった。わかったものの、それがどんなものかはわからなかった。解析の術式を飛ばしても、おそらく何も判明しない。緻里にエコーのように放たれる術式を、水面下で抵抗するくらいしかすることがない。それも、反術式を当てるのでは手の内を晒すことになる。緻里はサプリメントを飲むように、体の表面の術式順応性をいじり、藝適のエコーが適切な反応を拾わないように操作した。
藝適はニコニコしている。大陸にいたことを最初に話したことは間違いだったかもしれないと、緻里は思った。
「その傘、とても丈夫そうで、それに綺麗ですよ。でも、紅だから女物のようにも見えますね」
一瞬緻里は思純のことを思い出した。
「ああ、思い出の品なんですね」
ズキっと緻里の胸が痛む。緻里は心を読まれるような術式展開を感知していない。今周囲に広がっているのは「物理的なもの」のだけのはずで、精神に及ぶ論理式を見逃すはずはない。
「物理的なものだけでも多くのことがわかります。結局は人なのですから」
心拍数、呼吸、喉の渇き、緊張そして、総合的な気配は、その人の精神へと密接に繋がっている。
藝適はパーカーのフードを取り、天に掌を見せた。もうポツポツとしか降らない雨の勢いを確かめてから、緻里の側にある共北の階下への階段を降りていった。