六十九章《姿》
「制約の言語回路」六十九章《姿》
結局一流には及ばないってことかよ。
凛咲は自分の天性を恨んだ。それがあるが故に、凛咲はことごとくの努力を免れ、上昇にあくせくしている人を尻目に自尊心を掠め取ってきた。
思純も緻里も、「そういう顔」をしていた。つまり、天性におごったものを軽蔑する、真のエリートの顔だった。こんなふうに地にまみれて、顔に泥を塗られたことはかつてなかった。
嬢憂の言ったエリートの定義「努力し続けること」をこれほど痛切に感じたことはない。
なんなら凛咲は、思純や緻里に何をやられたのかさえ、わからなかった。種明かしをしてほしい。雷は偶然だったのかとか、俊速はどう破られたのかとか。
そこに、凛咲は師を見た気がするのだ。
***
端末を開いて、第一学府の教員の写真を片端から探す。緻里の顔はよく覚えている。言語情報研究局。局長の顔はうる覚えだったが、写真を見れば間違えない。言情研。ここだ。
正直な話、第一学府に入り直そうとするのは、馬鹿げた話だった。呪いをコントロールできない中で受験勉強するのも、首尾よく入れたとしても第一学府で勉強を続けるのも、困難以外の何でもなかった。
多くの人は凛咲の心に萌した双葉を、つまんで捨てるのに何の抵抗も感じないだろう。やめろと言うだろうし、応援もしてくれない。
凛咲にしても細い線だ。道は細く、成果は計り知れないほど遠くにある。
でも師を見つけたのだ。
「凛咲さん、一緒に勉強するの?」
狂翠がいつものように勉強しに凛咲の家を訪れると、凛咲が参考書を開いて勉強していた。参考書は何でもよかった。棚に差してある狂翠の参考書を借りて、勘を取り戻す。
指を動かす凛咲は、しおれた花が水を得て徐々に顔色を取り戻すように、生気をまた帯びていった。
細い道だ。導く人は自分以外いない。呪いはいつもそばにいる。そしてその呪いが果たして何なのか、凛咲にはわかっていないのだ。
「凛、勉強してるの、すごい綺麗やん」
花籠が言った。凛咲の家でコーヒーをみんなの分淹れている。
「綺麗て?」
「座った姿」
「姿って、なにそれ」
凛咲は笑った。
「背筋がスッと伸びて、指先が長くて、あぁ勉強好きな人なんやろなって。楽しそうやん?」
「そう?」
凛咲はカチャリとソーサーにカップを置く。タバコに火をつけると、一息ついた。
「笑顔、可愛いやん」
「くすぐらないでよ」
「凛咲姐さんは、恋愛とかしないんですか?」
「したことない」
「もったいない。美人なのに」
狂翠は、指を動かしてタバコをねだる。凛咲から手渡されたタバコを口にすると、目線を外して煙を吐いた。
「恋愛、狂翠はするの?」
「人並みには」
「ふうん」
「なんすか、ふうん、って」
「別に、そんな時間の使い方したことないから」
「時間じゃないですよ。どこにいるかですよ」
「現代文の文章にそう書いてあった?」
「……そうですけど」
狂翠はタバコの火を潰す。コーヒーを口にする。
「凛は、ここでゆっくりしてってや。そんなすぐに第一都市に行くわけとちゃうやろ?」
「そうだね。ここは居心地がいい」
手櫛で髪を整える。ショッピングモールで買った伊達メガネをかけて、凛咲は気分を上げる。
やがて夕飯の時間になると、花籠も狂翠も家へ帰る。
夜空に花が舞うように、雪がはらはらと散った。ひんやりとした外の空気が窓から伝わる。
しまいそびれていた暖房器具を出し、机の下の足を温めた。
カリカリとシャーペンを走らせる。
「凛は、ここで、ゆっくりしてってやー。ふ、御免被る」
綺麗な月が浮かび、机に突っ伏す凛咲に光を差し伸べる(さながら畜生に手を差し伸べる菩薩のように)。
「疲れたな。あぁ、疲れた」
***
ししおどしが定期的に音を鳴らすように、凛咲は勉強のルーティーンを崩さなかった。人里離れたこの町で、凛咲の呪いはなんとなく穏やかになっている気がした。
第一学府「言語・文化学域」、文系最難関の一つ。凛咲は西都大学では物理をやっていたから、受験科目は西都大学の時から少しばかり変更を余儀なくされた。
それは少し負荷だった。参考書だけで勉強することは慣れていたが、歴史科や地理科の勉強は仕上げ切るには時間がかかる。
タバコを吸う本数は増えた。
勉強の合間の買い出しもスクーターで。ぼんやり考え事をする。
凛咲に、結果的に浪人することへの抵抗感は一切なかった。彼女の時間は彼女だけのもの。自分より強い緻里の存在、ただそれだけに凛咲は執着した。
(私の速さは何によって阻止されたのだろう)
それが凛咲の知りたいことだった。
本に書いてあるようなことのはずがない。
緻里が書いた論文も何枚も読んだ。でも、そこには「詩」とか「天性」とか「異能」とかの言葉で、一般的に文学と言語の普遍的な力を論じているに過ぎない気がした。凛咲にはハッとすることがなかった。「術式」という概念は、巧みにカモフラージュされて、言及されていた。大陸術式に深く傾倒していないと、論文はそもそも暗号なのだ。
言語・文化学域に、何の興味もなかった。受験勉強だけ突破する。そのために必死になって勉強した。
凛咲は気づいていなかったが、体はとうに蝕まれ、限界を訴えていた。
***
ある日の夜に、狂翠が勉強しにやってきた。凛咲の家ではいつもその時間ココアを作って、花籠もいれば一緒に、卓を囲むのが通例となっていた。
鍵のかかっていない扉を開けて、狂翠が凛咲のことを呼んで、リビングに入った。
しんとしていた。
「凛咲姐さん?」
返事はない。戻って玄関の靴を見る。凛咲のいつものサンダルはそこにあった。
嫌な予感がした。狂翠は一度も上がったことのない二階に駆け上がった。ノックなし。着替えでもしていたら顰蹙を買うが、開けた時、ノックなんかして悠長に構えていなくてよかったと、安堵する間もなく、叫んだ。
「凛咲さんッ。姐さん、姐さん、姐さん」
凛咲が倒れ伏していた。尋常じゃない空気、死の気配。蒼白の顔面にチアノーゼした唇。
「やばい、息してないじゃん、姐さんごめん」
狂翠は高校で最もだるいアクティビティ「心肺蘇生法講習会」の成果を披露する。電話をかけて花籠を呼んだ。
花籠は救急にかけてから駆けつける。なんとか蘇生し、小康状態に落ち着いた凛咲は、病院へと搬送されていった。
「狂翠、明日あるやろ、うちが乗るから」
狂翠はうなずかなかった。結局花籠と狂翠二人で救急車に同乗した。
狂翠少年は目を潤ませていた。
「大丈夫や、きっと大丈夫」
花籠は自分に言い聞かせるように、言葉を繰り返した。
病院へ着くとバタバタと救急科で処置を受ける。待合で狂翠と花籠は黙りこくっていた。
一時間が経過する頃、医師が出てきて、凛咲は病室へと運ばれた。
「ご家族ですか?」
医師は花籠に聞いた。
「違います。友人なんです」
「ご家族の連絡先はわかりますか?」
「わかりません。でも、入院費とか、うち出しますから」
「そうですか。峠は越えましたが、予断を許さないことに変わりはありません。脳神経的な検査をする必要もあるかと、脳神経がズタズタになっています。それから痙攣、ひきつけのような発作が起きたことがわかっています。応急処置がなければ、もしかしたら命がなかったかもしれません」
花籠が狂翠の頭を撫でた。
「いいご友人は何にも代え難いですね。また明日来てください。ところで、ポケットの身分証の中に、西都大学医学部附属病院のカードがありました。何かご存知ですか?」
狂翠は何か言おうとして、あえいだ。
「彼女は西都大の学生なんです。たぶん。休学中とか」
花籠が言った。
「では、治療歴があるということですね?」
「おそらく」
「そちらに情報があるかもしれないな。文書でのやり取りになるので、時間がかかるとは思いますが、照会して確認します。今日はお帰りください」
***
「狂翠、お金持ってる?」
「花籠さん、あるわけないですよ。僕、学生ですよ?」
「コンビニ寄って下ろすわ。タクシー乗る?」
「それ以外帰る方法が」
「それなんだが」




