六十六章《狂翠》
「制約の言語回路」六十六章《狂翠》
「この町では、物資がものを言う」
花籠が言った。
「違いない」
狂翠が返す。
紙コップに注がれた紅茶を飲みながら、三人でいくつかのことを話し合った。
「ということで、うちの蔵にある食器とかもらって……」
「花籠さん、フライングです。それなら我が家の蔵の本も、誰も読まないんですから」
「食器も本もありがたいありがたい」
「タバコもらってますしね。流石に家では吸えない」
狂翠はちびりと紅茶に口をつける。
「大学生さんなんでしたっけ?」
「まあね、籍はある」
「どこなんですか?」
「西都大学」
くすくすと花籠が笑う。
「嘘じゃないよ」
「嘘ついているとは思わへんけど、なんかおもろいやん。勉強なんかどうでもいいって顔して、そんな高学歴」
「島国の典型みたいな?」
「ほんまそれやん」
「いいっすね。西都大学なのに、一切勉強でマウント取らない」
「勉強好きじゃないから」
煙が部屋に充満する。夜雨が外を通りかかる。
「あぁ、傘持ってきてないな」
「濡れて帰ろうか」
花籠が重ゆるに腰を上げた。
「今度はおつまみでも作っておくよ」
「それはありがたいです」
狂翠も立ち上がった。
二人が手傘で雨を避けて帰ると、凛咲は少し寂しく感じた。
***
狂翠はよく凛咲の家を訪れた。勉強道具を持ってきて、リビングの机で問題集を解いた。凛咲は狂翠の勉強に示唆するところは一つもなかった。ただ、簡単そうな問題集をやっているなと、半ば侮って、紅茶やコーヒーを供した。
リビングに備え付けられた本棚は、狂翠の持ち込んだ本でじきに埋まった。
凛咲は狂翠がどんな大学を目指しているかなんてことに、興味を示さなかった。それはただ、自分が高校時代にやった勉強と、狂翠の勉強に接点はなかったからだ。
狂翠は勉強が好きみたいだった。小さな喫茶店に通うみたいなもので、お菓子を持参して、本を提供することで、空間と時間を凛咲から買った。
凛咲の家に置かれた書籍たちは、どれも線が引いてあった。
古いものも多く、でも装丁は綺麗で、焼けも少なかった。
花籠は、その本を読みにしばしば凛咲邸を訪れた。
三人が集まる時は、凛咲が簡単な食事を作った。
凛咲がタバコを吸いながら、食器の片付けをしていると、花籠は狂翠の髪を結ったりして時間を潰した。
誰かが用意した麻雀牌で、三麻に興ずることもあれば、どこかの文芸部みたいに、原稿用紙に三題噺を書くなんてこともあった。
どれもみな下手だけれど、寄せ集めの三人の膠になるくらいの役目は果たしてくれた。
車を持っている花籠が、みんなを連れてドライブした。父親のものだから禁煙だと言われ、凛咲はため息をつく。
春風は窓を開けた凛咲の顔を撫でる。未成年の狂翠が、一人で酎ハイをぐびぐびと飲んでいる。その口つけた缶口を、はいと渡されると、凛咲も飲まないわけにはいかなかった。
狂翠はにこりと凛咲に微笑む。凛咲も笑った。何もかもがおかしかった。
「こんなくそ辺鄙な、何もないところが、どうしてこんなに楽しいの?」
「いやだなぁ、凛咲さん。何もないところにいる人が、どれだけ特殊かわからないんですか」
狂翠は缶をあおりながら、ちらりと凛咲を見た。
「ここが物語をどれだけ効果的に生む場所か、凛だってわかるやろ?」
花籠は凛咲を「凛」と呼び、凛咲も花籠は単に「花籠」と呼び捨てるようになった。
「空間的な閉塞感と、無時間的な倦怠感、そして」
「私のような部外者の闖入」
くくくと狂翠は笑った。
「凛咲さんは、まるで最初からいたような顔をして」
またくくくと狂翠は笑う。
「山桜が見えるよ」
高速道路の右手に、見事な山桜の列が並んでいた。赤く赤くきらめいて、花々が輝き、咲き誇っていた。この時間のためだけに、花籠は車を出したのだ。二十秒もないくらいの花見だったが、その美しさには心を打たれる。日常系の漫画で、ほんわかエピソードとして描かれるような、どうでもよさではあった。どうでもいいが、凛咲にとっては重要な景色だった。それは、花籠にとって思い出深い景色だということを、理解できる頭が自分にあることを確かめられたから。
(どうでもいいことばかりだ。全然成長しないんだな)
凛咲は生唾を呑んだ。悪魔のささやきに、思わずうなずきそうになった。
はあぁと息を吐く。
「凛は、わかりやすいなぁ」
「花籠にはそう見えるかもね」
「別にうち蔑ろにされたって悲しくなったりせんよ。ただ、子供にはわからんのだろうなって、軽く線を引くだけ」
「線」
「姐さんたちが何を言っているのか、あんまよくわからん」
狂翠は腕を組んで不服を申し立てた。
「推しを蔑ろにしてしまったなって」
「桜? そんなのどうでもいいでしょ。人生に何の関係もないじゃん」
「せっかく推してもらったのに、申し訳ないなって」
「蓼食う虫も好き好きって言うし、そんなこと凛咲さんいちいち気にするの?」
花籠はこの一連の話運びに、笑いを禁じ得ず、思わずアクセルを強く踏んでしまった。
ロードサイドのショッピングモールに車を停め、本やら服やらを買った。荷物をトランクに詰め、レストランに入り、ステーキを食べた。
休日だったからか、学生もたくさんいた。
「なあなあ」
少し離れたところにいたポニーテールの狂翠が、ナンパされていた。
車内で少し化粧を施していたから、結構な美人になっていて、当然納得の結果だった。
にっこりとした笑みを浮かべ、うなずくだけで声変わりした声を聞かせてあげない親切心。
こんな田舎だとナンパするくらいしかやることがないのかもしれない。第一都市帰りの花籠は、知らん顔でタバコを吸っていた。
男は四人組だった。地元の大学生二人と、高校時代の後輩の二人の計四人と、凛咲は分析した。
「ひとり?」
狂翠は指で凛咲を指した。
「お姉さんも可愛いっすねぇ。大学生?」
「ありがと。そうね大学生。一応」
「飯食べました? おごりますよ」
「一時間前に言って欲しかったな、もう食べたよ」
「じゃあタピオカとか」
「狂翠、いやじゃない?」
狂翠はお淑やかにうなずいた。
遠くの花籠は、完全に我関せず。少し離れたところの車に先に入って、「ごゆっくりお楽しみあそばせ」と凛咲と狂翠にメッセージを送った。
「美人姉妹っすねー」
「そお? ありがと。姉妹じゃないけどね」
「友達っすか?」
「仲間」
「こだわり抜かれた表現」
上手いこと言ってやったとドヤ顔の男子大学生。
「君らはどの辺に住んでるの?」
「ちょい海側」
「ほうほう。私あんまりこの辺のこと知らないんだ。この辺りの子は、ここに遊びに来るの?」
「まあ、俺ら結構穏やかなんで」
ギャハハと野蛮な笑い声を出す連中に、狂翠はぴくりと眉を動かす。
「タピ買ってきますんで、よかったら車で待っててください」
高校生二人が目配せされて、タピオカを買いに走っていった。体裁を整えてくれるのは、かなり助かる。
大学生二人が脇を固める。
「タバコ持ってる?」
凛咲は聞いた。あくまでも遊び慣れているお姉さんという感じで。
「一応」
「私と彼女に一本ずつもらえる?」
「不味いっすよ。てか吸うんすね」
ポケットからライターを取り、凛咲は火をつけた。狂翠にも火を分けてやる。
「どこ出身なんすか?」
「八ツ島。遠い遠い南の島。彼女の素性は知らないけど、田舎者であることは間違いない」
狂翠は笑みを漏らした。
タバコを一本吸い終わると、大学生たちは車の中に入るように言おうとした。その口が開く瞬間に、凛咲は胸元からタバコを二本取り出し、人差し指と中指に挟んだタバコを、大学生にくわえさせた。火をつけて、自分も二本目を口にした。恐ろしく素速い手際で。
「美味しい?」
大学生たちは目をしばたいた。煙を無意識に吸って咳き込む。
「タピオカ、まだ?」
凛咲の声音は少し磨かれていた。狂翠も簡単には笑えない声音だった。
高校生二人が戻ってくる。タピオカを携えて、凛咲と狂翠に渡した。何で大学生二人はタバコを吸っているのか、車に乗せる手筈ではなかったのかと訝しく思う。
「高校生くんらも、吸うといいよ。睡眠薬入りのタピオカより、よっぽどいいと思わない?」
凛咲は、山桜の美しさはわからずとも、素朴なナンパ師の手口はよくわかる。
「そんなそんな」
チュッと狂翠はストローに唇をつけた。掠れた声で「どうぞ」とタピオカミルクティーを高校生に向ける。高校生たちは、自分たちが何を入れたかよく知っている。
「間接キス、したくないんだね」
凛咲は嘲笑った。
手際の悪いナンパ師だ。
彼らはいきり立った。凛咲の肩を掴み、車へぶち入れようとした。
凛咲の人差し指の第二関節が、肩を掴んだ大学生の喉仏を「すごい速さ」で押す。
ガクンと後ろに倒れ、凛咲が何をしたのか視認できた人はいなかった。
ゲホゲホと喉を押さえる。ごくごく瞬間的な窒息なのに、身体へのダメージが著しく、また不可解への恐怖も襲いかかる。
「なあ、もう行こうよ」
狂翠がこのやり取りでは初めて男声を出した。呆気に取られる男性人を尻目に、二人は歩き出した。
「やっぱりそうかなって、凛咲さん、裏の世界の人なんだ」
「自慢できないけどスコアは30は超えてるかな」
「何のスコアか知らんけど」
からから笑って狂翠はタバコを放ると、火を足で消した。「30とか、異次元じゃん。怖い怖い」
***
「楽しんだ?」
花籠が聞いた。
「タバコが一本ただで吸えた」
狂翠はそう答えた。




