六十四章《凛咲》
「制約の言語回路」六十四章《凛咲》
一年間、凛咲はほとんどの時間をベッドで過ごした。怨嗟の声は凛咲を苛んだ。
弟の懐記が、受験で西都大学に落ち、八峰大学のある八ツ島に戻ったことは、少なからぬ「支えの喪失」だった。
内包する悪魔との無限に続く戦い。悪魔なんて現実には存在しない。全ては精神が作り出した虚構。でも誰も、虚構の非存在性を凛咲にいそいそと証明して見せようとはしなかった。
医療措置的な入院もあった。
嬢憂が折に触れて医療的なバックアップを行ったが、診断の結果は心因性のものではなく内因性のもの、脳内や身体に関わる疾患だということだった。
ここにきてもたげてくるのは、家族と離れて暮らしていることだった。父母との関係が悪く、理解者である弟の懐記が西都にいないのも、問題を深く悪くさせていた。
頼れる人がいなかった。
大学の授業にはもちろん出ることができない。あれほど敏速に殺せる凛咲が、鈍麻に陥るとは実に皮肉なことだった。
誰よりも早く真理にたどり着くはずだったのに、どうしてこんなことになったのだろう?
いつもいつも笑ってしまうのだ。愚鈍な社会にも、そして何も持たない自分にも。
タバコを吸う時間を正確に測ったことなんてない。昔は、よく時間を測っていたのに。一時間勉強する。問題集が七ページ終わる。そういうふうに。
自由になったのに、こんなに不自由なことがあるのか。心を渦巻く怨嗟の声が、凛咲の体を蝕んでいった。俊速の異能は沈黙していた。速さとはなんであるのか、わからなくなった。
勉強できれば、まだ救いはあったかもしれない。凛咲の脳にはいつも暗雲が立ち込めて、思考はままならず、言葉も思い浮かばなかった。
凛咲の異能は本質的には言語的な「ルート」の操作だった。「いる場所」と「落ちる場所」の設定をして式を組む。
脳が異能的に捉えていた「今いる場所」も、天啓として与えられる「その後落ちる場所」も、一切が雲の向こうに投げ捨てられていた。
病院はただ寝て、起きるだけの場所で、凛咲に内在する「悪魔」に有効な手立てを講じる場ではなかった。そもそも医学に「悪魔」なんて概念はない。
トンネルにさしかかった電車で、薄暗がりの照明に当てられているような、寂しげな感じがした。時間に取り残されていた。長い暗黒時代。
その中で特筆すべきことなどないような気がした。同じような日々が続き、そしてそれが普通の人の当たり前なんだと、強いて思うようにした。普通の。ありふれた。奇抜さのない。無意味な。無能な。
普通、という概念は、案外操作するのが難しい。平均という言葉が中央値を表さないように、相対的な立ち位置に、人は甘んずることができない。
特権的な異能は、凛咲を孤立させた。普通の女の子の五感を持ち合わせていないのだ。鋭敏な視覚は、周囲の速度とウマが合わず、馬車に乗せられたような牧歌的な風景の移り変わりに、「なんでだよっ!」と悪態をつきそうになる。誰も共感する人がいないから、それを自嘲する余裕も生まれない。
典型的で平均的な人を蔑視する態度は、不遇であるほど強化される。大した能力の差ではそもそもない、日常の習慣一つに、人は優位を見出し、劣後を嘆く。
島国の西国では紛れもない頂点に位置する西都大学にいるということが、凛咲の認知を逆に歪めた。落ちこぼれたと、思ったのだ。
***
友達と胸を張って言える人が、凛咲にはいなかった。八ツ島に残った友達は、みな連絡が途絶えてよそよそしい。
これといって趣味もなく、無聊を慰める手段に乏しい。
物理や数学の教科書は、飾ってあるだけ。
二年はほとんど、というか全く、授業に出なかった。
二年の第四四半期初め頃に、嬢憂が顔を見せた。
「嬢憂さんは、どうして第一学府に行かなかったんですか?」
お決まりの学歴トーク。そんなことしか話すものがない。嬢憂は極めてさりげなく返した。
「なんとなく。凛咲さんもそうなんじゃない?」
「嬢憂さんは高校、府学なんですよね?」
「そだよ」
「エリートなんですね」
「まあね。でも、エリートの定義って、凛咲さん知ってる?」
「学閥を形成しているとか、仲間意識みたいな?」
「誰よりも頑張る人のことを、私はエリートと呼んでいる」
あくまでも、私はね。そう付け加えた。
凛咲は違和感を持たなかった。努力したと思っていたから。自分の得た病は、単なる不幸だと思っていたから。
嬢憂は意図的に言葉で間尺を測った。敢えて言葉にしなかったけれど、「あなたが誰よりも頑張った人だ」と、嬢憂は思っていない。緻里のように異能を備え、地頭だけで大学に入るような惰弱な凛咲を、嬢憂は別にすごいともなんとも思わない。それが嬢憂の本心であり、本音だった。
その態度は、凛咲の深くに内在する、他者に対する甘えのようなものを、浮かばせ気づかせようとするものでもあった。
誰かに助けてもらう。それでは凛咲の能力に見合わない。壁は、自分で乗り越えなくてはならないから。
「どれくらい長い時間かかると思う?」
「へ?」
「悪魔が凛咲さんの体から立ち去るのは、いつだと思う?」
「わから、ないです」
「考えてみて。こんなこと、学生さんにしか聞かないよ。患者さんはもっと弱いものだから」
「私だって、弱い、です」
「何年?」
凛咲はしばらく考えた。
「十二年。三十くらいには、よくなってるといいなって」
嬢憂は笑った。
「そんなもんだよ。私だってそう。抱えている問題が解消するのは、十年後かそこら。自分で解決する、自然にとは、言わないけど。時間は自分で決めないと。間違えたらまた目算して、とりあえず、内容は置いておいて、枠組みを作らなくちゃね」
凛咲は曖昧にうなずいた。
(早く忘れなくちゃ)
「へ?」
小さな声でつぶやかれた嬢憂のせりふ、凛咲は明瞭に聞き取った。ただ、何を忘れるべきなのか、どうして嬢憂が忘れなくてはならないのか、そして声の小ささの理由も、判然としなかった。
「なんでもないよ」
***
病院の喫煙所で、凛咲はタバコを吸っていた。
夕焼けが西都の空を染め上げ、空気はひんやりしていた。
喫煙所には凛咲の他、誰もいなかった。
少し変な感じだと凛咲は思った。でも考えるのが面倒だから、タバコを吸い続けている。殺意を殺意と気づかないのは、凛咲の感覚が鈍くなっている証左だった。
ちりりとタバコの火が発光して消えた。そのまま灰受けにタバコをねじ込み、喫煙所を出た。
異空間だった。方向がわからない。凛咲は解析の術を知らない。だから、空間にどんな仕掛けがあるのか、全くわからなかった。
どうやって脱出したらいいのか。誰を、殺せばいいのか。
脳内が沸き立ち、一瞬にして凛咲は臨戦体制を整えた。武器が欲しいところだが、それはおいおい考えればいい。
「凛咲殿でいらっしゃるか?」
後ろを振り返ると僧兵が立っていた。一人ということはないだろう。あと三人はいる。それはなんとなくわかった。
そういえば唯宇を殺したなと、一年前のことを思い出す。あの時、唯宇の展開した結界を斬った時の快感は、凄まじいものだった。愚鈍な僧侶の頂点と聞くから、さぞや愚かしいだろうと想像していたが、頂点が整っているからまだ寺院組織は成り立っていたんだろう。復讐計画に一年もかけるなんて、やはり愚鈍だ。
「ええ、凛咲です」
「貴女には申し訳ないが、死んでいただく」
笑ってしまうが、そういうせりふを吐いた奴の剣は、凛咲の肌をかすめられたためしがない。
「武器が欲しいな」
凛咲はにたりと笑った。




