六十二章《鬼化》
「制約の言語回路」六十二章《鬼化》
懐記が西都大学のキャンパスを歩いていた。隣に背の高い女性。思わず声をかける。
「ああ、ええと、愛橋の『姐様』……すみません、お名前を忘れてしまいました」
「言雅だよ、懐記くん」
隣の女性は、よく見ると顔が似ている。
「姉の」
「凛咲と申します」
深々と礼をする。
「姉は西都大学の大学生で」
「西都の人?」
「いえ、八ツ島、南の方の出です。田舎者ですよ」
「そうは見えない。垢抜けてるね」
凛咲は細く長い髪を紙のアクセサリーでまとめ、ツインテールにしていた。目元はほの赤く、唇は薄い。
姫系というほど凝ってはいない。でも確かな存在感だった。
「姉弟で、西都に一緒に下宿してるんです」
「留学みたいなもの?」
「そうかもしれません。八峰では満足できなくて」
八峰とは八ツ島地方にある国立大学。
「学部は?」
「理学部です」
「《どこに住んでるの?》」
言雅は、ここで初めて凛咲を「値踏み」した。言語回路の展開への反応を見る。
「秋狂です」
全く動じない。愛橋に弟のことを聞いていなければ、関係ないと流したかもしれない。でも、弟が最強なのだとしたら、姉が最強でも驚きに値しない。
何のことかしら、という顔が、むしろ疑わしい。
「言雅さんは、今日はどうして?」
「ちょっと顔合わせに」
それではうまく伝わらなかったのか、懐記は首をかしげる。
「懐記、たぶんだけど、言雅さんは先生になられるんだと思う」
凛咲はやはり大学生で、懐記はやはり高校生だった。懐記は目をしばたいた。
簡単なやり取りで言雅と姉弟は別れた。
疑い深くなっている。関係者がこんな密度で現れるはずがないと、言雅は自分を諌めた。
***
眠れなかった夜に、本を読んでいると、雨がポツポツと窓に当たって、まるで呼んでいるみたいだった。
お腹が減って、甘いものでも買おうかと、家を出てコンビニまで行った。傘が雨を弾く。言語空間で雨を定義する。雨滴を弾けさせる遊びに熱中する。
(こんばんは)
言雅は、その気配をずっと無視してきた。言語回路を展開しなくてもわかる。確かにあの声だった。(私が速いだけ)その短い自己陶酔だけが手がかりだった。
「凛咲さん」
「言雅さんも秋狂にお住まいで」
「そうだね、偶然だね。懐記くんは?」
「寝ています。コンビニですか? ご一緒しますよ」
刀はない。でもつい先日会った時の、何もないニュートラルな雰囲気と打って変わって、凛咲は、ドス黒くにじんだ怨念や悔恨を身にまとっていた。表と裏、光と闇、善と悪。内在する矛盾、そのカオスとノモスの相剋が、彼女の力の源泉だった。
それでも、言雅は、凛咲を下手人とするに躊躇した。
隣にいるのは怪異だった。何かに取り憑かれて、半神半人の怪異になっていた。
「辛くないの?」
「昔からです。大したことありませんよ」
渦巻く憎悪が凛咲を蝕んでいるのがわかる。
その可愛らしい髪飾りも、雨に濡れてもいいのかと思うくらいの上等な衣装も、何もかも暗い印象に染まっていた。
薄桃の歯肉が覗く。笑っているのか、笑わされているのか。神が巣食っている。心が侵食されて、自我が同定されない。
身にまとうオーラが、邪神の侵食によるものだとしても、驚くほど冷静に、凛咲は言葉を発する。
震える手を抑え、乱れる言葉を糺し、自分が人間であることを自分に言い聞かせる。
「西都大学に受かった時は、嬉しかったですよ。これで暴力を振るう父親と、ヒステリックな母親から、解放されるんだって。……違うんですよね。知ってました。問題は常に私の中にあったんです。私を抑制しようとして、家族は家族なりに努力していたわけです。家族から解放されて、西都に来た時に、同じような課題を持つ子が集まって、ここが成立していることに気づきました。そうですよね、言雅さん」
言雅はしばらく考えた。
「遺伝からくる病と、環境起因のストレスを混同させてはいけないけど、概ね正しいと思うよ。ここは、バケモノの巣窟だからね」
コンビニでシュークリームを買い、コンビニの軒先でかぶりつく。
凛咲はタバコを買い、一本吸った。
「助けてほしいです」
凛咲は言った。
「それは無理だよ」
言雅は笑った。軽い感じで首を振った。
「助けてください」
「私には無理だ」
君を殺すことは私にはできないから、そう言いかけた。
「じゃあどうすればいいか、教えてください」
「言語はいつか飽和する。感情はいつか平坦になり、病はいつか日常に埋没する。タバコ、一本もらっていい?」
凛咲はタバコを差し出してそこに火をつけた。
「ここはいいところです。狂っていても誰も何も言わない」
「凛咲さんは色んな人に関心があるんだな」
言雅は思ったことを口にした。唐突でも言雅からすると自然な話題運びだった。
「変ですか?」
「いいや」
言雅は灰受けにタバコをねじ込んだ。
その一瞬の間に、凛咲はいなくなっていた。
***
西都大学の学園祭。冬にさしかかる涼しい季節に繰り広げられる。
屋台が出て、舞台が用意され、出し物や演技が発表される。
OBOGも帰ってきて、共に楽しむ。
寮も参加の一団体。仮装して大学を練り歩く。府京の在学生、例えば愛橋、府京のOB、例えば御笠がばったり出会うのも、こういう祭りの場だった。
「御笠兄様〜」
「やあ、愛様。西国は大変らしいね。僕も戦々恐々としているよ。幸い辻斬りは第一都市には及ばないみたいだけど」
「兄様、府京の先輩方はみなさま兄様に会えなくて寂しいと、寂しいと言っておるのです」
御笠はにこにこしながら、ふわふわと浮く愛橋を撫でる。
「言雅さんは元気? 流酒さんはあんまり見ないけど、どうしているんだろうね」
「姐様なら、さっきそこに」
「御笠さん。ごきげんよう」
「ごきげんよう、言雅さん。就職決まったってね。おめでとうございます」
「ありがとうございます。おかげさまで。府京の出世頭からすると五年は遅れているといっても過言ではないですけど」
「言雅さんの研究は、玄人向きだからね」
「恐縮です」
「なんか、警戒してる?」
いえ、別に。と、そっけなく言雅は返す。
「すごいね」
「何がです?」
「臨戦体制だ。気張ってるね」
御笠には何もかもが透けているのかもしれなかった。
「…………」
「御笠先生-Yu li xian sheng-」
御笠が後ろから声をかけられた。大陸語を話す知らない女性だった。恋人という感じもしない。でも、あの御笠のことだから、そっけなくても内実は異なるのかもしれない。
「思純先生、怎么了-Zen me le-?」
「 」
言雅は息を呑む。突然のことだった。そして、思純が発したその術式は、昔緻里が世界に織り込んだ物語そのままだった。美しい詩文が奏でられた気がした。
きぃぃんと鋭い音がする。切先が言雅の目の前で止まっていた。鋼鉄より硬く、紙より薄い物質の具現化。命拾い。
物質を生成する思純の魔法。
展開する術式はオーソドックスな大陸の詩学。言雅は怖気がした。
言雅がついぞつかむことのできなかった敵を、思純はいとも簡単に捉えた。
空間に張った蜘蛛の巣のようなクリスタルネット。対象の速度に応じて強度や粘度を増す。
素早く逃れようとすると逆に絡む。徐々に敵の姿が明らかになる。
刀が振るわれる。クリスタルネットは伸びて切れない。飴のようだ。
「御笠先生、これは出し物か何か?」
ぞくりとする。府京の誰の手にも余る凛咲を、思純は大したことか?と一蹴した。
思純は凛咲に近づくと、手から刀を奪った。
「すごい憎悪。救いようがない」
思純はそれから凛咲の頭をつかみ、目を覗き込んだ。
「鬼化しているのか。これまた救いようがない」
思純は大陸語でブツブツとつぶやく。
「どうする?」
御笠が聞いた。
「殺してあげたほうが、幸せだと思うけど。死地を探していたんでしょ?」
大陸語で凛咲に話しかける。押さえつけられ伏せつけられた凛咲は、何が起きたのか、まだ理解できていないみたいだった。
絶対的優位が完全に解体された動揺。
「ふうむ。鬼化しているといっても、まだ三割くらいね。腕のいいヒーラーがいれば、呪いを根治することも……」
「と言ってる」
御笠が通訳になって、言雅は大急ぎで嬢憂を呼んだ。




