六十一章《ヒーラー》
「制約の言語回路」六十一章
直衣姿の流酒と、袴姿の言雅は、祭りが終わると深々と愛橋に礼をした。
命が助かったのは愛橋の加護のおかげ、ということになった。
「姐様方におかれては、今日は誠にご苦労であった」
どこか幼児的なところが抜けない、愛橋の謝辞に、二人は深々と頭を下げる。
言雅は、もう三キロ先まで言語回路を走らせている。ビビリとは流酒も口が裂けても言えない。怖さを直接ペンキで塗られたくらいの、心臓の怯えようだった。
愛橋の居城で座す。そこはそもそも物理的に入ることができない。鉄壁の防衛網。なんなら男子禁制まである空間。
奥から出してきた酒を、言雅と流酒はちびちびと飲む。酔うと戦えない。そんなことが心配になるくらいの死戦だった。
あれはなんだったのだろう。
剣撃を交えた流酒にも定かではなかった。
折れた刀を回収することは、結論から言うとできなかった。呪力が強すぎて、山車の一つに刺さったまま、「廃炉」の手続きを踏まざるを得なかった。
言雅は手の火傷をまじまじと見る。
「みやび、私たち勝てるかな」
「勝てるとしたら、私たちしかいないでしょうね」
「違いない」
流酒は笑った。
「なんか、こう、軽い感じだったよね」
「みやびもそう思うか?」
「うん。怨念とかそういうのはない。敵意も感じない。腕試しのような」
「そうだな。私もそう思う」
流酒は佩いていた刀を抜く。
呪いの痕跡が残っていた。呪いの種類を分析する。
言雅クラスの言語の使い手だと、一つ明確にできることがある。言語によって分析できない呪いとわかれば、その呪いは、「霊魂」や「神意」の産物だと消去法的に同定できる。
「自然神かなぁ」
「みやびもそう思うか? 私もやり合った感じ、神意を感じた」
「使い手は、清浄な感じがしたけど」
「わかる。あっけらかんとした雰囲気。学生がバイトしているって感じだ」
「祝福と憎悪。たぶん、祝福が強すぎるんだ。あんな刀持って『火傷』しないんだから」
「自然神。そのものとか? 風、光、音等々」
「それじゃ勝てねえよ」
「それなんだよなぁ」
何杯目かの酒を酌み交わす。
「流流姐様は顔見なかったのですか?」
「見たけど。……女だと思う。一瞬の三分の一くらいの時間だったから、マジでなんとも言えん」
「祭りの日でよかったよ」
「なんでですか姐様!?」
「流酒が刀を佩いていた」
「抜いて突っ立てていたようなもんだが」
直衣姿がやけに似合う。
「愛、明日から学校だろ?」
「毎日楽しい♡」
「何よりだ。早く寝ろ。みやびも疲れてるだろ、着物ほどいてやるよ」
「言雅姐様、母が服を用意しました。普通の寝巻きですみません。今度はセーラー服を持ってこいと怒っておきますね」
「これでいいんだよ、これで」
「流流姐様にはこれ、はい詰襟」
「寝にくそうだなぁー」
「それ似合うのすごいな流酒、歳考えろよと言おうとしたのに」
酒が回ってきたのに、神経が昂ってなかなか眠れなかった。それは流酒もそうみたいで、杯を重ねて、夜明けまで呑んでいた。
***
流酒は行方をくらませた。もしかしたら西都を出たのかもしれなかった。彼女が死んだと言雅が思うことはなかった。そうであればすぐにそれとわかる。それくらい強い絆で、言雅と流酒は繋がっていた。
何にもない日が続いた。言雅は恐る恐る外に出て、自分の住む場所と、読むべき文献を定めた。手続きのために西都大学に足を運び、図書館の利用手続きも滞りなく行った。
もうそろそろ、大学教員になれる。楽しみでもあったがほとんど心配だった。
あんなに強いと評判の言雅ですら、居眠りする学生が出たらどうしようと、どうでもいいことを気にかけた。
西都大学文学部文学史研究科の研究室に顔を出すと、教授はじめ院生や学部生が、どんな人なんだろうと、興味深げに言雅を見る。
「文史研です」
大学院生の一人が、そう言った。言雅はうなずく。「ご専門は?」
「1900年代の文学批評です。大正から昭和にかけて」
「全然知らない世界だ」
院生がそう言うと、周りは笑った。乾いてもいず、潤いすぎてもいない、健全なユーモアだった。
「手、どうされたんですか?」
言雅はビクッと手を丸めた。
「ああ、いや。この前ちょっと」
「うちの医学部にちょっとしたヒーラーがいます。見てもらうといいですよ」
「ヒーラー?」
「癒し手です」
「へえ」
「嬢憂さんという方です。確か第一都市の出身で」
「西都大学の医学部なんて、そんなエリートのお目にかかっていいものですか?」
「彼女は確かにエリート主義です。でも、とても優しい方ですよ」
医学部の内線に早速繋げる。簡単なやり取りで向こうの研究室に出向く時間が決まった。
「お連れしますよ」
親切な大学院生は言った。
「休葉と言います」
「言雅です」
言雅は休葉にぺこりと頭を下げた。
「僕は、大陸哲学史を専門にしています。大陸ものをやるのは、ここではあまり好まれませんけど」
「そうなんですね。大陸語は?」
「読めるだけです。発音もいい加減で、とても通じません。南の方の方言をとあるきっかけで勉強したのですが、その時は標準語とこんなにかけ離れてるなんて知らなかった。笑っていらっしゃるということは、そう、常識なんです。でも文字は一緒だから読める、と。お笑い種です」
「では休葉さんは你好-Ni hao-は-Nei hou-と?」
「そうなんです。よくご存知で」
医学部の研究棟に着いて、建物の中を歩く。病院とは違い、研究設備を備えていることから、最先端な感じがする。
研究棟三階五号室を覗くと、嬢憂が笑顔を見せた。
「こんにちは」
言雅が一礼して挨拶した。
「こんにちは。嬢憂と申します」
「言雅です」
「手、ですよね?」
「そう、なんです。その、……うまく説明できないのですが、火傷と言いますか……」
「呪い?」
「そう言って差し支えなければ」
「手を焼くほどのものは、あまり聞きませんけど」
ふわりと手のひらが温かくなる。ぼんやりと光る嬢憂の手から、祝福がもたらされる。
「気になります?」
「すみません、つい」
言雅はその祝福に触れた。言葉や論理ではない、その現象としての祝福が、手をみるみるうちに修復していく。
「刺青みたい」
「根深いということですか?」
「それもあるし、何かのマークになっている。例えば座標特定の鍵にされていたり。完全に抜くには、私もこの呪いと戦わないと」
嬢憂は言雅の手から自分の手へ呪いを移す。澱んだ黒いシミが言雅の手から消えていく。
「ふう」
嬢憂は言雅に向き直り、笑顔を見せた。
「修復は終わりです。誰かと戦っているんですか?」
「まさしくそうです。でも誰と戦っているのか、わからない」
「そんなものです。敵といっても本当に敵かはわからない。身内が反旗を翻すこともあります。言雅さんも、戦わない日が来るといいですね」
「エリート主義って聞いてたのに、びっくりするくらいお医者さんで」
「医者と言ってもらえると嬉しいです。自分ではそんな気がしないもので。地元なんですか?」
「え、ええ。そうです」
「西都大学だったんですか?」
「いえ、私は大学中心でした」
「友達が行っていました。大学中心、訪れたこともあります。いいところですよね」
「嬢憂さんは、第一都市の出身とか。府学だったんですか?」
「府月でした」
「月の方ですか」
「言雅さんも? 府学ですか?」
「府京です。帰ってきたら友達が優しくて」
嬢憂は笑った。
「府京は仲がいいんですね。大学中心には私の友達が行きました。知ってます? 緻里っていう子なんですけど」
「いや、知らないな」
「そうですか。府学にありがちな地頭魔人で」
「じゃあその子は第一学府落ちたんだ」
「しかも今どき浪人ですよ」
言雅は嬢憂の口ぶりから、嬢憂が本当に緻里と仲が良かったことを窺い知る。
「嬢憂さん、丁寧にありがとう。府月と聞いて納得がいく。本当だつたらもう少しざっくばらんに話したいところだけど、嬢憂さんのお時間もあるだろうし」
「お気になさらず。また寄ってください」




