六十章《祭り》
「制約の言語回路」六十章《祭り》
ギリシャ哲学に興味が持てない。府京での学習で課された哲学の、ギリシャの分野で、言雅は初めて学習に興味を失った。
興味を失った、あるいは興味の持てない分野は、大学に入った後山ほど出てくるのだが、なによりそのギリシャ哲学が、基礎または常識としてもたげてくることに、言雅は我慢ならなかった。
「俺もそうだったよ」
ちょっとした世間話で、すれ違った普桜にそう言われた時、そんなことではだめだと諌められたように感じた。粗野で、大雑把な普桜が、ギリシャ哲学について知っていることなんて高が知れていると思ったが、その後彼は言雅にこう言った。
「プラトンやアリストテレスは、世界の地の文なんだよ。ハイライトがないから気にしなくてもいいっていうのは、快楽に慣れすぎているな。頭がいいのなら、それを証明してみろ。ハイライトをつけるのが学者の役目なんて、そんなことないぞ。つらつらと地の文を読んでみせろ」
高校生の時で、父親と話すことなんてほとんどなかったから、言雅は普桜の言葉をよく覚えていた。
どうでもいいことに価値がある。……当たり前な哲学がなければ、今の哲学的舞台の楽屋も大道具も存在しない。
語られたことがあり、それゆえに語られていないことを、語られていないと知ることができる。
言雅は、西都大学の専任講師のポストに応募した。専門は文学研究「批評」の分野だった。
西都大学の学者は、総称としての府学になんの興味も示さない。
そんな肩書きなどありふれているし、エリート主義なんて中身のない態度を、彼/女ら教員たちが取るはずもなかった。
徹底的に実力を量る。徹底的に中身を見る。
西都大学は、島国において格別の地位にある大学だが、その学生の出身地域別の偏りはほとんどなかった。
受験が、そういう作りになっている。
第一学府が多く府学を出身母体とするのに対抗して、西都大学は各地域に特別受験枠を設けて全国から学生を呼んでいる。
およそ教員もその傾向に漏れず、多くの地域に公募を行い、偏重を嫌い多様性を称揚した。
だから、大学中心を出たのが、奏功した、のかもしれない。言雅は来年度開始と同時に専任講師となることが決まった。
大学にいる人たちは今起きている地殻変動の震源地に言雅がいることを知りもしなかった。彼らには仕事があり、それは多く大陸との間で行われている戦争に向けて動いていた。
西都大学に在籍する学生も教員も、西都および西国プロパーの出来事に、興味も知識もなかった。大学の行事は淡々と挙行され、滞りは全くなかった。
西都大学の教授の中には、極めて優れた数学者や物理学者がいた。彼らは世界のことわりの管理人であり、なおかつ冒険者でもあった。
活力ある研究風土を、言雅はそこに入って初めて知った。
大学中心では敵なしだった言雅の頭脳も、西都大学では並か、並以下でしかなかった。
府京のような、地頭優先の特殊能力社会ではなく、努力に対して対価が払われる競争社会。
でも、そういう「健全な」競争に没入するためには、西都を平定しなくてはならない。土着の抗争に足を引っ張られていては、競争に遅れをとる。
努力、……久しく聞かない概念だった。言雅は笑ってしまった。緻里を思い出したからだ。
「あの地頭魔人と同じとはな」
幸い、新学期までにはまだ時間があった。それまでに決着をつける。
地元で身近な存在だった西都大学が、果てしなく大きい存在に思えた。
***
祭りの当日、言雅は実家にあった衣装が汚れていないことを確かめて、身にまとった。
古いドラマで母親が、死んだ父のことを言及する場面を想像して、勝手に笑えてきた。
「お父さん、あの子が、そうなのよ、ねえ?」
言雅の記憶にある「我が父」が「お父さん」と呼ばれる姿が想像できなかったから、余計に笑えた。
服を着る時に口にした「よいしょ」というかけ声に、「歳をとったのかな」と独り言を言った。
「才能は枯渇するから、努力しろよ」
小さい頃に言われたことを思い出す。
「どこかで勘違いしたのかな、……まあいい」
帯を締め、袂を整える。髪を結い、化粧を施し、傘を開いて前を見据える。
城山を降りると流酒がいた。
「懐かしい衣装ね」
「そういえば、流酒も出るのか」
「みやびがいない間、ずっと私が祭りを支えてきたんだよ」
みやび。流酒だけの言雅を呼ぶ呼び方。
空気を吸う。
「行こうか」
流酒はうなずいた。
大きな山車が干支を数えて十二台走る大がかりな祭り。
言雅は子年、最前戦だった。
「姐様、そんなに警戒せんでください。可愛い私が心配ですか? でも、私守られるほど弱くないです」
「知ってる」
「気をおさめてください。大きな気では、仕損じますよ」
「わかったよ。ごめん愛橋」
「いいってことです。では」
山車を引く男どもの屈強さ、ところどころに点在する府京の異能。まさかここを突くなんて、そんなことあるはずがない布陣。
愛様ー、愛様ー。沿道の人は愛橋に注目している。愛橋が狙われるはずがない。そんなことをすれば逃げ切れるはずがない。もし、その場にいるもの全てを、殺す気でなければ。
笛を吹きながらふんわりと考えていた。空間把握系の異能なら、父親が遅れをとるはずがない。もし、。
ふわふわと浮いて愛嬌を振り撒く愛橋の首が飛ぶ。……その寸前の空間を爆縮する。
違和感が表出する隙なく、愛橋を流酒が列から引き離す。男衆が壁を作る。第二刃が狙ったのは、果たして言雅だった。
言雅は能力より知性に頼った。異能が検知するより速く、敵は身を動かし、目標を斬る。探知した距離から算出される速度を五倍速にして、自分の周りを爆縮した。
笛を強く吹く。
(笛を吹くの、名詞と動詞の《ふ》は、意味が繋がるから使われているのかな?)
空間を把握する。それには言葉は、。
「遅すぎる」
言雅は息を止めて焦りを黙殺した。
(私が速いだけ)
敵のつぶやきが高速で後ろに行く。怖い。
周囲の空間が、平面的に閉鎖されるなら、上から突き刺すと脅された。首でも喉でも目でもなく天頂から、。
死んだ。無理だ、避けられない、速すぎる。
汗が出る間もない。まだ一瞬とすら言えない。0秒の領域。
しかし刺さることはなく、直上を流酒の体が空振りした。
これでようやく一瞬が通り過ぎる。言雅は空間全体に言語回路を這わせる。安心する間もなく敵の移動痕跡が明らかになる。言語結界でも探知できない。痕跡から移動経路が把握できると思ったが、無秩序に見える移動痕に逆に混乱する。
「愛橋は!?」
「男どもが『俺が先に死ぬ』ってさ」
隙のないスクラムを組んでいる。
「見えるのか? 流酒」
「考えるしかないだろ、みやび」
勘がいいのは流酒の方。言雅は後衛に回る。前から来ると言えばその瞬間後ろから刺される類の敵。西国最強、いや、島国最強かもしれない。どこにこんなやつが隠れていたんだ? どこ生まれだよ。
呪いの密度を上げることは、世界全体に負荷をかける。言語回路を開き、世界に言語を注入する。
「愛」
流酒がそれを口にすると同時に、初めて刀がぶつかった。
「?」
敵が疑問を持つのももっともだった。何せ見えていないのだから。
「最強かよ。術式なしの、瞬足の異能ってさぁ!」
言雅は空間の「重力」を擬似的に変化させた。数瞬しかできない芸当、何の意味もないエキシビジョン。エキシビジョンにもならない。常人は感じられないから。
でも、速すぎる敵の足を引っ張るくらいなら、その「学芸会の出し物」も効果を発揮する。
刀がぶつかり火花が散る。音が後ずさるくらいの高速。
敵の顔はついぞ見えない。
流酒でも防戦一方。
敵の手がかり、。
声に出す暇もない。呪いの刀だ。
呪いの刀なら、サンプリングしてある。言雅の手に残った火傷がうずく。
計算して同じものを探し、それを、破壊する。言語回路が高速計算する。座標や定性的な性質、そしてその反物質を、空間全体に、。
ぐきゃあ。
声に出したいくらいだった。そんな暇がない。呪いの反射を喰らう。準備していなかった。でも、。
(すご、私の刀に干渉したんだ)
可愛い女の子の声が、聞こえたような気がする。気合いで刀を折りにいく。
バギィ。
豚が鳴いたような小さな声。普桜はこの刀にやられたのか。あの場に残された刀は、結果的に言雅に生きる道を残した。何かの理由であの刀を回収できなかったんだ。
コォォォンという角笛の鳴くような音がして、刀が折れた。
音もなく敵は退却した。言雅の言語回路は、敵の座標を失った。だから、退却したと、祈るしかなかった。
周囲はちょっとしたハプニングがあったというくらいの認識で、愛橋はまた先頭で愛嬌を振りまいていた。
何が起きたのかを改めて把握する前に、言雅も笛を吹き始めた。祭りは何事もなく終わった。




