六章《叡樹》
「制約の言語回路」六章《叡樹》
「第一都市を生きるというのは、さぞや大変なことだろうね」
何の匂いかと思っていた。
それはタバコだった。
どうやって火をつけたのか見えなかったが、機識はタバコを口にくわえていた。
「僕の父は第一都市の出身だった。芸術家でね。この家の他にアトリエを構えている。そこでよく寝泊まりをしている。父は第一都市が嫌いなんだ。疎外されたと思っているし、排斥されたと感じている。科学技術の世界に、芸術を行使することは、宗教的ドグマを標榜するに等しい。美しい絵は美学の対象になる。でも父の絵は美しいだけじゃなかった」
緻里はその言葉を聞いて、機識が「自分と同じ」なのだと思い、機識に強いシンパシーを感じた。
「後輩にタバコを勧めるのも、あまり気は進まないけれど、もしよかったら緻里くんも一服するといい」
タバコを一本箱から出すと、機識は緻里に手渡した。緻里がタバコをくわえると、火は自動的についたように見えた。
緻里は機識の挙動から目を離さなかったのに、機識が展開したはずの術式は、これと判明することがなかった。
「不思議なことをしているね」
機識の言葉に、緻里はハッとして詫びた。
「それは島国の奇跡ではないね。大陸の上流階級の言語回路か」
緻里はうなずいた。
「ふうん。でも、それでは僕を理解することは決してできないと思うよ」
「そうみたいですね」
緻里は煙を吸った。
「へえ、緻里くん。面白いね。気づかないうちに君は、言葉で世界が理解できると考えるようになっているんじゃない?」
「そうかもしれません」
「無限に文節する言語を希求してやまないんだろ?」
「そうかもしれないです」
「誰かはそれを傲慢だというかもしれない。でも僕はそれをむしろ謙虚だと思う。世界が理解できると思うことは、そう思わないことより、ずっとずっとマシな考えだ。傲慢だと突き放すことが、何より傲慢なことだ。僕らは、一歩ずつ前に進む。言語で世界を言い表す。そちらの方がよほどマシだと思うよ」
「機識さんは、自分を孤独だと思わないですか?」
緻里の問いに機識はにっこりと笑って言った。
「同じことを考えている人と一緒にいると、虚しくなることはないかな? 共感できると心温まる反面、体が引き裂かれたりしないかな? 一人でいることは孤独だということを帰結しない。僕の外に何があるかじゃないんだ、僕の中に何があるかなんだよ。大陸の言語回路は君の宝だから、だから君は孤独じゃないんだ」
大陸の言語回路という言葉は、思純の存在に置換され、思純の存在があるから、緻里は孤独ではないのだ。たとえ彼女の存在が空間を緻里と共有していなくても、緻里の中にある。
タバコの煙はゆらゆらと部屋を漂う。
部屋の戸が微かに風で揺らいだ。
緻里は風の動きで家の戸口を開けた人の身長や体型を把握して、女性だということから機識の母親かと思った。
「鍵閉まってなかったよー」
若い女の声だった。機識の母ではない。
「ごめん、来客だ」
機識はタバコを握り潰すと、屑籠に捨てた。「ちょっと待ってて」
「ん? 誰かいる? 機識ー?」
「はいはいはい。叡樹。後輩が一人。最近友達になったんだ」
「男の子だよね?」
「もちろん。靴でわかるだろ?」
「とってもいい靴だったから、びっくりした。新しい靴を買ったのかと思ったよ」
バタバタと音がして廊下からリビングに叡樹と呼ばれた女性は移動する。コートを脱ぎ、ソファの背にかける。
緻里は機識の部屋を出て、リビングに顔を出した。
「こんにちは。私、叡樹と言います。機識の幼馴染なの。あなたは?」
「緻里です。中心の一年生で」
「私は中心の四年生。よろしくね」
口にゴムをくわえて、髪をゆわく。買い物袋には食材が入っていた。
「これからご飯作るの。君も食べてくでしょ?」
「いいんですか?」
「もちろん」
さっきまでなかった弦楽器の入ったケースが、叡樹の荷物をまとめた部屋の端に置かれていた。
「ヴァイオリン。最近だと楽器は珍しいよね。中心のオーケストラに入っているの」
手を洗う水音、野菜を切る小気味良いリズム、油の弾けるシズル感、叡樹は音楽を奏でるみたいに無駄のない動きで、食材を調理していく。
ケトルで沸かした湯で、機識はコーヒーを作る。コーヒーの香ばしい匂いと、調理されていく食事の香りが鼻腔を刺激する。
「叡樹は欧州に留学していた。音楽をこよなく愛する、とても市民らしい女だよ」
「市民ね。あ、先サラダ食べてて。そのうちスープも出すから。市民とは政治を行い、そして政治に行われるものである」
「なにそれ?」
「私の卒論の書き出し」
機識は疑義を呈したが、緻里はその文構造が気に入った。
トマトやオリーブ、チーズを使った小鉢がトントントンと出てきた。
温められたパンに、それを浸すためのオリーブオイルが用意される。
リビングテーブルが活況を呈してきた。メインディッシュはアクアパッツァ。チーズたっぷりのきのこリゾットも出て、満腹は必至だった。
機識も叡樹も、緻里のことを知りたいと思ったらしく、様々な質問が出た。
第一都市とはどのような場所で、どんな高校生活があって、クラスメイトはどんな人で、どうして留学したのかと聞かれた。
二人は第一都市に行ったことは、本当にわずかな時間だけで、風光明媚で知られる海都のことが好きだったから、第一都市を侮っているように聞こえる口ぶりでもあった。
緻里はできる限り自慢にならないように、控えめに言葉を尽くした。説明には簡単な比喩を用いて、具体性をぼかした。
緻里の方は海都のことを聞いた。
港に着く船に乗ると、世界を一周できる。まことしやかに機識が言うと、叡樹は笑った。機識が話す海都は、誇張されているのか、それとも単に話しぶりの問題なのかわからなかったが、叡樹はとても楽しそうに合いの手を挟んだ。
「港を海と挟む山に登ると、本当に綺麗な夜景が見えるの。もちろん第一都市に美しい夜景がないとは言わない。でも、海の人が迷うことがないように祈る港の光、灯台の灯りは、風景だけではないの。空間に音がなくても、私は港に音楽を感じることがある。夜の静謐という極上の音楽。音の塊を時間と呼び、音のない静寂を空間と感じる。できれば忘れたくない景色」
ワインに口をつけながら、とろんと酔う。
片づけは機識がやった。たくさん出た洗い物を手際よく捌いていく。
「弾いてもいい?」
ヴァイオリンを取り出すと、叡樹は広いバルコニーに出て、旋律を奏でた。
バッハだと、キッチンにいる機識が言った。「彼女はバッハが好きなんだ」
楽器が切り裂く空気の傷は、時折血を流しているように緻里には思われた。
精霊たちを降ろすように、その受け皿を作るように、天に蔦を伸ばすように、叡樹は風に刻印を刻んでいった。
ふわふわと緑色の光が叡樹の周りを漂う。それは緑色の炎だった。チリチリと小さな火の粉が空へ上がっていく。
ヴァイオリンの弦が緑色に発光する。音はどこまでも研ぎ澄まされていく。
食器を洗った機識は、ポートワインを出して緻里のグラスに注いだ。
夜は更け、名残惜しいことを伝えると、いや、引きとめて悪かったねと機識は言った。玄関先で礼をする。
叡樹も手を振って緻里に挨拶した。
「お二人はその、付き合ってるんですか?」
「いいや。ただの幼馴染だよ」
機識はすぐに言い切った。叡樹はどうでもいいらしく、ただにこにこしているだけだった。