五十九章《懐記》
「制約の言語回路」五十九章《懐記》
「こんなふうに悠長にディナーなんて大丈夫?」
「夜は比較的暇なんだ」
はめられた指輪で、穂緩はいくつも縛られている。その呪力を見るだけで言雅は嫌になりそうだった。
指輪は西都で一般的に「契約」と呼ばれる呪術行為だった。要するにいろんな女の子の面倒を見ているということ。後ろ盾のない困窮した女の子を囲っているのだ。
穂緩は言っているのだ。「傘下に入らない?」と、言雅の弱みをついている。
「穂緩、指輪増えたね」
「そうだね。外したものもあるよ。言雅、高校の時僕のあげた指輪」
「あんなもんつけてやるか、ボケ」
「取ってあるの?」
「春泣にあげた」
「お、おまえ、」
「春泣、すっごく喜んでたぞ。穂緩のことが好きだったんだなぁー」
「実験で煙と消えたに全財産賭けてもいい」
「降ります」
春泣は府京の同学。
「春泣が輝かせる笑顔が目に浮かぶよ」
「いやぁ、いいことしたよ」
言雅は額の汗を拭う仕草をする。
「ところで、しばらくはホテルにいるんだろ?」
「しばらくはね」
「冷蔵庫に入れてほしいものはある?」
「もう十分だ。しばらくは中で暮らすよ」
「普桜さんの件調べておくよ」
「頼んだ。君はいい人だな」
「同級生だったんだから、当たり前だ」
「好きか?」
「そりゃ好きだよ」
「にゃはは、嬉しいな。ありがとう。ここでは、言を弄する必要がないから、楽だよ」
「休むんやで」
「うん、ありがとぉ」
「外に出るなら、流酒を呼びなよ」
「あの気まぐれファンシー女の子が、すんなり来てくれるかね?」
「ずっと言雅に会いたそうにしていたから、きっとすぐ来るよ、それに、流酒は気まぐれでファンシーだけど、最も忘れてはいけないのが、府京で最もつよつよの、女の子だったことだよ」
***
料理をして、それを自分で食べた。
ホテル暮らしなんてしたことがなかったから、かなり緊張したが、そもそも考えてみれば、言雅は、新しい住まい探しもしなくてはいけなかった。その間の仮住まいと思えば、悪い気もしない。
言雅は、府京で何をしたわけでもないのに、同学からかなりの支援をしてもらえる。
もちろん本当に「何をしたわけでもな」かったら、誰も手助けしてくれないのだから、高校時代はそれなりに立ち回っていたのだろう。
祭りに出て笛を吹いていたことを思い出した。笛が手元に欲しかった。
丁寧に手紙を書いて、愛橋に送る。
「……愛姫の祭りに間に合わせるために、どうかお持ちの笛を、賜れれば幸甚この上なく存じます」
「姐様の、美しい筆致に、私、感激いたします。嬉しおす、お手紙、うれしぃです。笛、ホテルまでお持ちします。姐様、好きです。またたくさん話しましょう」
村上春樹『1Q84』の青豆の孤独な生活を思い出した。
フロントに言って、福田恆存の全集を取り寄せた。研究に取りかかる。
ホテル併設のジムで体を動かす。穂緩のホテルだということで、かなり安心して生活ができる。しばらく術式を使わずに済んだ。
愛橋が来ることを忘れていた頃に、フロントから電話が鳴った。と、同時に空気が変わった。愛橋の気ではなかった(とまで正確にわかるわけではないが)。
電話を取ると愛橋がにこにこと到着を告げる。部屋番号を伝えようと思ったが、漂う気が言雅に躊躇させた。
結局言雅はロビーまで下りた。
気が渦を巻いていた。隠し切れないオーラがあふれ返り、近づくのもためらわれる。
それは陰陽の気が混じる、台風のようだった。内側に渦巻いている。周囲からエネルギーを奪い、中にカオスを生じさせる。愛橋は、それに酔っ払い、操られている。
そうとしか思えなかった。愛橋から出てくる無限の「陽気」を、吸収して自分の中にある「陰気」と混ぜ合わせる。
「こんにちは、姐様。彼氏を紹介するね。懐記だよ」
懐記は恭しく頭を下げた。それだけでもう、言雅は敗北した気分だった。こんなの、どうやって勝つんだよ。
「はい、姐様。笛。たくさん練習してね。それで私を守ってね」
愛橋はトートバッグから笛を取り出した。
美しいつくりの笛だった。特段呪いがかかっているようには見えない。
「懐記くんは、西都最強なんだっけ」
「そんなこと、自分の口からはとても」
「でも、見せつけてくれるじゃないか。その陰陽。名のある家の出で?」
「名のある? 僕の父親も母親も、とても普通の人です。姉が西都大学に受かったのも、僕が府京にいて、その、愛さんの恋人でいるのも、親はびっくりしています。驚いているのは、僕もですが」
陰陽の渦巻く異能は、西都らしいと言えば西都らしい。
でも、陰陽だけでは普桜の殺害者と断定することはできない。
「お土産です〜。笛だけじゃ味気ないですし」
西都大学近くの和菓子屋さんの生菓子をくれた。
「どうかお見知りおきを。懐記と言います」
「言雅です。高校生では交通費もバカにはできないだろ? ホテルの喫茶店でお茶でもしないか? それとも、」
「姐様、私たちは、」
「デートの途中なんだな。いい。悪かった。《お会いできて光栄だ》、懐記くん」
呪いの形で発した術式は、簡単に解体されて形も残らなかった。特段気にしているふうではないから、彼にしてみれば呪いは避けるべき脅威ではないのだろう。相性が悪すぎる。
ホテルの扉を出る二人を見送ると、愛橋は喜びを表すようにふわふわ浮いて、何度も手を振った。
懐記はニヤリともせず恐縮したまま、何回か頭を下げた。
ホテルの部屋に帰ると、どっと疲れてベッドに体を投げ出した。
思い立って生菓子を開けて、バクバクとやけ食いする。食に耽溺していたら、この数日で二キロ太っている。
「殺し損ねたと思ったら、あんなふうではいられない、はずだけど。並外れて強い場合は、そういうわけでもないのかな」
笛を持ってホテルの視聴覚室を借りる。
音を出してそれが、アーティファクトだとは思えなかった。
山車の先陣で指揮を取る愛橋のそばで、この笛を鳴らすんだと思うと怖かった。何かが起こる気がする。でもその「何か」がわからなかった。
***
その電話があったのは、ホテルに籠城してから二週間が経つ頃だった。歌谷からだった。同じことを伝える電話が、穂緩の代理人からも届いた。
抒情院の唯宇が死んだ。というか、抒情院は全滅した。
「は?」
「普桜さんを殺したのは抒情院じゃなかったんだ。十中八九、普桜さんの時と同じ下手人だ。おれ、怖いよ」
「怖がってる場合かよ! 歌谷がお父様を守るんだろうがッ」
「西国の柱がどんどん燃えていく。もう誰も残らない」
「その話、流酒にしたか?」
「つかまるわけないだろ、あんな気まぐれ」
「そうか。そろそろ祭りだ。最後の華かもな」
「お前が死んだらどうなる、言雅は俺たちの中心にいて、いつも責任を持って俺たちを率いてきた。お前が死んだら終わりだ。絶対に死ぬなよな。俺はお前が好きだから」
「西都の封建体制への反乱なんだろうな」
「誰かが息苦しいって気焔を吐いているってことかよ」
「戦争だな、これは。新旧の争い、西都の体系への挑戦。まぁいい。たとえ負けたとしても、新しい時代はいずれ来る。とすれば」
「とすれば?」
「精一杯戦うだけさ」
祭りの日が近い。言雅はやる気だった。笑みを浮かべ、ホテルの外を闊歩した。




