五十五章《古本》
「制約の言語回路」五十五章《古本》
緻里は紫と電車に乗って、都心まで出た。
何か話さなくちゃいけないわけじゃないのに、緻里は紫の隣で気を詰まらせていた。
なにより、紫が楽しそうに鼻歌を歌っているのが、怖くて仕方なかった。
話しかけようとすると紫は、タイミングよく本を開いたり、また話しかけようとするとタイミングよく手を握ったりした。
「どうしたの?」
しばらく逡巡した後、緻里は紫に聞いた。
「こんな都心にどんなご用なんです?」
「出る時に言ったじゃん」
「聞きましたえ、本を買いに行く、紫も好きな本を買えばいい」
「そうだよ」
「それ以上のことがあるの?」
「ないけど……」
機嫌は良さそうなのに、塩対応。不思議な感じがした。
都心、真珠市。島国一の繁華街。
緻里は小さい頃はよく父親に連れられて真珠市へ来ていた。
いくつかの毛色の違う書店を点々と巡るのについていった。
その頃にあった書店はもう一、二店舗しか残っていない。大学中心のある海都や大陸、雪国にいた時期が長く、真珠市の本屋からはずいぶん遠ざかっていた。
一軒目の道半ばで、紫があまりにも行きたくなさそうなオーラを出していた。
「行きたくないの?」
「そういうわけでは」
「じゃあ、僕だけ行くよ。すぐに戻ってくる。喫茶店にいる?」
「いやというわけではありません。あなたは、その本屋……おそらく《声籍》というお店のご店主と、簡単なお話ができるということで、いいですか?」
「父の昔馴染みなんだ」
「ほおお、なおさら行く気がなくなりました」
「どうして?」
「……わたくしの父も、《声籍》の店主を知っているから。あなたにわたくしの出自を軽々に知られたくないのですよ」
「恋人なのに?」
「恋人だからですよ」
真珠市のターミナル駅から、しばらく歩いて、御苑の近くの静かなビルの一階に、《声籍》はあった。
「外で待ってる?」
「いいです。あなたのことも知りたいから」
夏だった、紫の額には汗の玉ができる。
「あなたは暑くないんですか?」
「風が吹いているからね」
「それは結構」
…………「いらっしゃい、しぃらん。それに、代風先生の坊や」
「しぃらんはやめてください」
紫は恥ずかしそうに手を振った。
「いつまでも坊やで、恐縮です」
「何と言ったっけ?」
「緻里です……しぃらん?」
「親がつけたあだ名のようなものです。紫藍、紫に藍と」
「二人はどこで?」
「それは秘密です」
緻里がこぼしそうになったのを、紫が制する。花街で知り合ったとは言いたくない。
「新しい大陸本は?」
緻里は単刀直入に聞いた。
「情勢が悪いねぇ、入ってないよ」
「そうですか、……紫のご両親は西の人じゃないの?」
「言葉だけ西なんです。大元は東の人間ですよ。でも、現今の世にあって、東も西も気にする人しか気にしないでしょう?」
「しぃらんは、そこの、代風先生の坊やといい仲なのか?」
「いい仲なんてものではありません」
さらりと言ってのけるあたり、自分たちの関係はまだ浅いなと、緻里は思った。店主は感心していたが、ある境からおべんちゃらになった。
店主が軽薄なわけではないが、本を読む人には上手を取れないのが、本屋の宿命なんだろう。
「紫のお父さんは、何をしている人なの?」
オープンな場で聞くという体を取りながら、回答を半ば強制する。緻里のやり口に紫はすごく嫌そうな顔で、でも店主の前、なぜそれを隠すのかと言われてしまう形でもあったので、はぁとため息をつき、「喫茶店でお話ししますよ」と言った。
そう言われると店主に聞くわけにもいかない。
「そうそう、坊や、君が来たら言おうと思っていた。古本のつて。帰化した大陸の大先生の蔵書が解放された。先に押さえてもいいぜ、いくら払う?」
緻里もまたため息をついた。嬉しいのは嬉しいが、仕事の領域だから、自腹を切りたくない。でも、古本の先取権なんか予算で落ちるはずもなく、緻里は130と言った。
「175は?」
「175? そんなにいい本がある?」
「中身は見ちゃいねえがな、先生の名前は控えてあるよ」
「帰化した先生でお年を召された方は存じ上げています。そんなことでつりあげないでよ」
「坊や、手間賃も考えてくれよ」
「じゃあ目録を作ってくださいよ」
「言うようになったねえ」
「大陸物は売れないでしょう。引き取って差し上げます。135は手間賃ですよ、在庫を持っていただいた礼のようなものです」
「でもなあ、正直150はもらわねえと」
緻里は正直相場がわからない。勘でしかないが、135も持ち出しすぎなのだ。でも店主の手練手管に巻かれ、喉元に150とまででかかった。
「あなた、こんな場末でせこせこと金勘定をするのはやめなさい」
「しぃらん、場末とはひどいねえ」
「本が買いたいのでしょう?」
緻里はうなずいた。
「あなたが持っていると見せるからダメなんです。うちは50までしか出しません。わたくしが言うのだから絶対です。逃がした魚は大きいですか? でも本ごときに100も200も出すなんて、馬鹿げてると思いませんえ? うちは50までしか出せません。結論です。ご店主は、第二の緻里が現れることを今後十五年首を長くして待つことです。じゃあ行きましょう」
紫は緻里の手を握り、てくてくと店の外に連れ出した。
「ちょ、ちょ、ちょ、待ってくれご両人。わかったわかった。50でいい。50でいい」
「ね? あなた、わかった?」
「はぁい」
50払うと店主から住所をもらった。
同じ真珠市の東、出版社が並ぶ区画が書かれていた。
「ごめん、紫、こんなことに付き合わせて」
「いいえー、楽しおす」
電車に乗って真珠市の端へ行く。
倉庫になっているというビルのベルを鳴らすと、若い男の声がした。
「どなたですか?」
「緻里と言います。淑英先生の本の権利を買った者です」
「伺ってますどうぞー」
二階の部屋に通される。
「そこが、淑英先生の本です。三千冊……くらいかな。要る本をこちらに用意しました段ボールに詰めて梱包してください。伝票はご自身でお書きください。運送業者への手配は、ま、サービスですかね」
説明を聞くと緻里はすぐに選書の作業に取りかかる。
二世代は隔たる碩学、淑英の本だから、新刊の大陸本を買うよりずっと楽しい。
パラパラとめくると、メモが書かれている。淑英の手は、美しい。
紫は、淑英の所蔵していた和書を、楽しげに眺め、何冊かカバンに入れて満足気だった。
「《うち》っていうの」
「うん?」
「西方の方言だよね」
「チャキチャキなら当然の女言葉です」
喫茶店で、コーヒーフロートを飲みながら、さっきの言葉を思い出す。
「うちは50までしか出せませんって、商家か何かだったの?」
「没落した、ね。私の周りは、お金がなくて。美人も台無しの人生です」
「その割には不幸そうに見えない」
「当たり前。幸福の指標で最も当てにならないのが金なんだから」
「西の商家なのに東の老舗の本屋と付き合いがあるんだね」
「出版一家でしたから。あなたみたいに本を読む人が少なくて少なくて窮しましてね。わたくしも何度も真珠市には足を運びました」
「一緒に遊びに来たの?」
「友達とみんなで、わいわいと。わたくしのところが一番落ち目で、でも見栄で金払いだけはよくて」
「そんな話、初めて聞いたな」
「言ってませんもの。あなただって学者の息子と口にしました?」
「ごめん」
「あなたと話すと昔のことを思い出します。ああいやだ、と、そんな顔しないでよ」
紫の変幻自在の表情に、緻里は翻弄された。少しばかり年嵩と、そんなわずかの年齢差がこんなにものを言うのかと、しばらくうちひしがれる。
「昔のことなんて思い出すの?」
「あなたは思い出さないの?」
ピシリと稲妻が空を割った。生暖かい風が吹き、大雨を降らそうと待ち構えていた。
「あなたが降らしているの?」
「まさか、でも、そうだね、止ませろと言われたら結構困る」
「傘、ありますよ」
「降ると言っているのに紫は喫茶店を出るの?」
「雨もまた一興」
「共にずぶ濡れに一票」
「それもまた楽しいわ」




