五十四章《歳月》
「制約の言語回路」五十四章《歳月》
猪口に口をつけ、食卓で紫と向かい合う。
紫は酒が好きらしかった。
とろんとしたタレ目で、酔いを顔に出すことはない。
緻里はあまり酒を嗜む方ではなかったが、どうですか、一献と紫に言われると、喉をなめらかにアルコールが通った。
恋人の趣向に染まるのは、癪ではなくむしろ愉しみだった。
紫は日本酒が好きで、かつて裏日本と呼ばれた米どころの酒を、二、三種好んで呑んでいた。
「刺身は高いですか?」
「紫が好きなら、僕は気にしない」
「魚を焼いても?」
「もちろんだよ、ありがとう」
紫の隣で料理を手伝うと、紫はよそよそしく緻里から距離を置いた。
和装はほとんどしなかった。タートルネックの長袖に、丈の長いスカート。体が大きく、胸の膨らみも腰のくびれも「立派」だった。
夜、買った碁盤と碁石で「ままごと」をするように碁を打つ。にぎりで先後を決められるくらい実力伯仲だった。
緻里は楽しかったが、紫は表情を変えない。つまらないのだろうか、弱くて呆れているのだろうかと、緻里は心配する。
笑顔を見せるがそこに翳りがあるから、御笠に悪いなと、緻里は心を折り畳む。
共寝する時に泣いているとか、そういうことではなかった。どこかうつろな紫の魂が、行き場を見失っているみたいだった。
年齢を聞くと、紫は笑って「あなたより二歳年嵩です」と答えた。一つ一つ現実に縫いつけていかないと、ふわりと気球のように浮いて、果てしなく遠くへと飛んでいってしまいそうだった。
「故郷は?」
「あなたはどうなんです?」
「僕はここだよ」
「わたくしは、ここよりずっと西です。逃げてきたんですよ」
逃げる、という表現が定める事実はあまりに不確かで脆かった。
「第一都市は嫌い?」
「好きも嫌いも、ただ居る場所でしょう?」
「居る場所が好きかは、大切なことじゃない?」
「ただ居る場所という評価が、私の中では最上級です。そこに居られるのだから。あなたのような人もいますしね。西は、言葉こそ柔らかいですけど、ひんやりしていますから」
「ノマドのよう」
「ノマド。ちょっとわかりません」
「故郷がない人たちの総称」
「それは辞書的な定義とは違う気がしますけど」
緻里は鼻白んだ。紫は言葉がわからないわけではない。言葉を発することで、何かが明らかになることを、敬遠しているだけなのだ。
紫は体の人だった。見目麗しく、肉感がある。精神的な交感を求めるより先に、質量としての体が威張ってやまない。
だから、緻里は紫の「言葉少な」な態度を、特段不思議とも思わなかった。
家事に気配りするのも、先に体が動くから。文字を書かせれば一級で、毎日日記を書いている。それが芸というのだから、女郎時代と変わらない。
「何かやりたいことはないのか?」
「ええ。何も。あなたとは違うのかも。大陸のお勉強は進んでいますか?」
問いを発する時は、少し緩んでいる。聞かれると緻里は嬉しいと思う。
「そうだね」
紫は言葉に出さない。でも緻里の大陸語が、その背後に思純の存在を、思純を知らなくても想像させる。
御笠のことを、紫はどのように理解していたのか、もし許されるなら話してみたかった。決して口にされることのない話題だけ、共有しているのだ。
「何か好きなことはないの?」
「趣味がないんです。寂しいでしょう」
「寂しいなんて。いつも美味しいご飯を作ってくれて」
「ご飯は美味しいものなんですよ」
「褒め甲斐がないな」
「謙虚と申していただいて」
顛倒させた敬語まで、堂に入ったものだった。
キスは、いつも紫からだった。ほのかにともる唇の火が、逆に緻里の熱を奪った。目を見つめて、緻里が目を逸らすと、勝ち誇ったように緻里の頭を撫でて戻した。
「冷たい体だ」
「失礼な」
抱きしめると紫は抱き返す。
言葉にしないことが、豊潤なやりとりを生むなんて、緻里は知らなかった。
「もう、いい歳なんです」
「だから?」
「でも、あなたを束縛したくない」
「気にしないでよ」
「御笠さんと同じこと言わないで」
「兄弟みたいなものだから」
「わたくし驚きました。緻里さんは大人なんですね」
緻里は咄嗟に、紫がなんと言ったか聞き取れなかった。
「おとな?」
「歳の問題ではなく、女の扱いというのでもなく、そうね、陳腐だけど愛を知っている」
それに緻里は返事をしなかった。
紫が働かす想像力は、ほとんど正確な緻里像を結んでいた。「御笠さんのご同僚なら」なんて、簡単な表現で煙幕を撒く。
実際はそんなふうに緻里を見たことなんて、紫にはなかった。だから、紫が「御膳」に載せるように緻里に供する言葉なんて、何一つ「本当のこと」がなかった。
でも逆に緻里は、紫の使うそういった無意味な比喩の印象で紫を見るから、紫に真実なるものがあるのだとしたら、真実は緻里から程遠い場所にいた。
ただ、一緒にいるのに深い理解が必要なわけではないし、大人を相手にしているのだから、それはつまり理性を頼りにしていいということだ。
言葉は何の意味もない。何の働きもしない。紫の体が月明かりに照らし出される。
「どうしてこんなに美しいのか」
「あなたにそれを知る資格があるからですよ」
緻里はぞくりと震えた。文字にすると陳腐な「資格」という言葉が、恐ろしく響いた。
***
緻里が第一都市、形書に構えた家。第一学府の言情研からは一時間ほどかかる。郊外というほどではない。住宅街で、広い家が何軒も立ち並ぶ。
佐官として稼いだ金で頭金を作り、ローンを組み家を建てた。
細かく部屋を分けてはいない。三階建てで、一階はリビングとキッチンと浴室。二階は二つの寝室と小さな和室。三階は書庫と執務室。リビングと執務室は不要なまでに広かった。
緻里は書庫に本を並べ適宜それを取りリビングで紅茶なんかを飲みながら読む。
紫はリビングに小さな本棚を用意して、大部な歴史物を古本屋で買ってきてそれを読んだ。
紫が、車を買ってほしいと言ったから、緻里は近くに駐車場を借りて、国産の「かわいい」車を用意した。小さなもので、紫は好んで運転した。
車は、「足」であると同時に「舞台」でもあった。運転する紫の表情は、嬉しそうで、また自信に満ちていた。
遠くまで旅行する時も、運転するのはいつも紫だった。丁寧なハンドル捌きに、緻里は感動する。紫が無口なのがなおよかった。
車にかける音楽は、決まってクラシックだった。モーツァルトであることが多く、ケッヘル番号を紫は記憶しているようだった。
車は紫の部屋であり、彼女の体の一部だった。車体は紺色、ガラス窓は丁寧に拭かれ、曇りなく光を受け入れる。
「車が好きなんだね」
「あなたのように飛べませんもの」
古臭い言い回しなのに、皮肉には聞こえなかった。紫は思ったことをそのまま言っているわけではないのだ。でも、だからといって、計算が張り巡らされているわけではない。
ねじれた位置にある思考と表現が、お互いに打ち消しあっていた。そこには本質も表象もない。
御笠はきっと、紫のそういうところが好きだったのだろう。そしてそれは緻里にとっても同じことだった。
「その指輪、綺麗ですね」
緻里は、紫の声にビクッと体を震わせた。
その反応だけで、紫には十分だったようで、「誰かとの約束ですか?」と、軽く聞いた。
「忘れた」
「そういうこともあります」
「もう歳月は言い訳にはならない」
「わたくしにも、会いたい人はいます。そうね、確かに歳月は言い訳にはならない」
紫は本当に可笑しかったみたいで、くすくすと笑い声を漏らした。
こんな女が、ここで自分と暮らしているのが、どうしてかわからなかった。化け物じゃないか。そう言ってやろうかとまで思った。
「どうしたの?」
「いや、怖いなって」
「こわい? それはどうして?」
「まるでもう百年ぐらい生きているんじゃないかって、そんな気がするから」
「いやだわ、それは、あなたが好きな女の子がまるで、あなたの思い通りに振る舞うみたいじゃない?」
「そうでなければ、結ばれる意味なんてない……って言ったら、軽蔑する?」
「あなたはその逆です。思考の筋道をかき乱す人が好きなんです。わかりやすいです。わかりやす過ぎます。だから、わたしくしのことが好きなんでございましょう?」
「そうだね、紫はお世辞を言わない」
何を言っているのかしら、そんなの、……。
「当たり前じゃない」




