五十三章《思純ではない人》
「制約の言語回路」五十三章《思純ではない人》
正面右32度。
緻里は一瞬ためを作ると、風を残し飛び立った。
「なんて方」
紫はつぶやいた。
槍を降らせた術師は、四十くらいの男性だった。もうすでに何人かの女郎と管理人の安澄は血で着物を染めていた。
息を巻いて、荒い呼吸音がうるさいくらいだった。
店に飾ってあった槍や刀が、そのまま使われたらしかった。
緻里は刀を向けられる。
「こういう接近戦は、苦手なんだよな」
瞬足。風が敏速な移動を可能にする。
男性の胸を一押しする。それだけで男性は吹き飛んで、からんと刀を手から落とした。
風圧で圧倒する。
ガタンと後ろで音がした。固唾を呑む緊張の空気が、緻里を引き戻した。誰の声もしない。
「御笠」
部屋に戻ろうとして、緻里はまだ息のある後ろの男性の脚を刀で串刺しにして地面に深く縫いつけた。
「御笠」
発砲音。立て続けに二発。
コンマ数秒で部屋へ戻る。
銃を持つ暴漢を風でねじ伏せて、銃を奪う。慣れた手捌きで銃を敵の脚に撃ち込む。
御笠は紫の体にもたれて、紫を銃撃から守ったらしかった。血がこぼれていく。
「御笠、大丈夫か」
「痛いのは嫌だよ、緻里。泣きそうだ」
紫はその腕で、御笠を抱き締める。
「飛ぶよ」
「飛ぶって、どこへいきますのん?」
「こんなどん詰まりで命を落とすわけにはいかない。まだまだ降りてくる気配がする」
緻里は御笠を抱き抱えると、紫に言った。
風で紫の周囲を巻き、ふわりと浮かせると飛び立った。
もう火がついていた。生き残ったのはもしかしたら緻里たちだけなのかもしれなかった。
「あの子たち、ようやく自由になれたのね」
紫がつぶやいた。年下の女郎のことを言ったのかもしれない。
「背丈は177、レインコート。当然ながら火の術式を備えている。緻里、好敵手かもよ、くふ、ぐ、うう、いたぁ」
何の因果で、雨門が襲撃されたのかはわからない。久坂に消防車が駆けつける。
久坂を抜けて、緻里は大学病院の救急外来の門を叩いた。御笠の出血は止まらず、意識も曖昧になっていた。
紫は、心配そうな顔こそしていなかったが、御笠のことを単に客とだけ思ってあしらうのとは違った面持ちだった。紫は、御笠の曖昧な恋人なのだろう。
「緻里はん、どちらへ?」
御笠が救急に運ばれるのを見て、緻里は翻る。
「残党を潰す」
「怖い顔。ほどほどにしておくれやす」
「御笠のことを頼んだよ」
「言わずもがなどすえ」
***
まさか軍人が降り立つとは、誰も想像していなかった。
当代一流の風の使い手。
雨を降らせて風に巻かれた火災の勢いを抑える。鎮静と鎮魂の雨だった。消防隊もその豪雨に放心する。
「放火ですか、少佐」
消防隊の長は、緻里の知り合いだった。
「何人逃げ遅れたかな」
「二十はくだらないでしょうね」
焼けた鉄のにおいがする。がらがらと久坂が崩壊していく。
まなこに焼きつけられる赤い炎が、雨で茂り狂う草木のように、枝分かれしてまるで建築の意匠のよう。コリント式の列柱だった。
雨は潤潤に地面を湿らす。
「少佐、今日はどうして? 久坂に用でも?」
「たいしたことじゃないよ。あ、でも、ちょっとだけ用事ができた」
「少佐?」
緻里は何も言わず飛び立つ。暗闇の中逃げる男の背中を追いかけて、風に乗る。
「こんばんは」
緻里は、その男の顔を見た。見覚えはないが、かなり手だれだということがわかる。もしかしたら、御笠を殺しに来たのかもしれない。大陸の暗号技術を片端から無効化する頭脳を、大陸のエージェントは嫌ったのか。
「你叫什么名字-Ni jiao shen me ming zi-」
緻里は名前を問う。
「先に-Qian mian-名乗れよ」
「緻里」
「緻里。俺は国龍」
「逃げられると思うなよ」
緻里は珍しく語気を強くする。
「ここでお前を殺しておくのも悪くないな」
雨雲が立ち込めて湿気が充満する。風は凪いだ。ぱちっと、小さな閃光が走る。
雷撃が国龍の肩を焼いた。同時に緻里の肩も炎で焼かれる。風雨を纏い、炎を無化すると、緻里は肩を抱えながら、雷を落とす。轟音と衝撃で国龍はしばらく動けない。続けて落とす。直撃させることもできた。でもそんな精密な術式操作が、今はとても億劫だった。
「何で焼いたんだ? 御笠が狙いなら、久坂を焼く必要はなかっただろうに」
「俺には焼くしか能がないからな」
発火の術式の展開する様子を、緻里は冷静に解析していた。
複雑な半術式を構築し、発火するエネルギーは国龍に逆流する。
国龍は一瞬何が起きたのかわからずに、手元から自分の体が焼けていくのを不思議そうに眺めていた。
聞くに耐えない断末魔、炭化した体が転がった。
***
御笠は死んだ。
それで暗号解読技術が、何年遅れるかわからない。
府京の仲間たちがわらわらと葬式に来て、悲しそうに恨み言を言った。
大陸の関与がわかると、途端に世間は好戦ムードで、このこと一つにつけて、また何人もの軍人が亡くなるのだ。
葬式では紫は女郎言葉を使わなかった。年季が明けたようなものなのかもしれない。彼女が使う言葉は、徹頭徹尾標準語になった。着物も着ない。
同郷の人もいるだろうに、そんなことにおわせもしなかった。
手に感触が残っているのかもしれない。御笠は紫を庇って死んだのだ。
悲しそうな顔をしないのが、それでも西都らしかった。悲しい気持ちが言葉にならないのだ。今紫が西都の言葉を使わないのは、それを口にしてしまうと、涙が止まらないからだろう。
喪服にスーツで来て、誰とも話さずに帰る。帰り際に、緻里は紫を呼び止めた。
「はい、緻里さん」
「これからどうするんですか?」
「さあ、世話になった方に押しかけたら、もちろんその方には家族がありますし、どうしようもないと言えばそうなのかも。でも気にしないでください。わたくしは、すでに半分死んでいるようなものです。緻里さんと同じですよ」
「僕と一緒?」
「わたくしにはそう感じられるだけです。気にしないでください」
目を細めて、紫は笑った。儚げで、消えゆく雪のように美しかった。
「それとも、わたくしのような汚れたものでも、緻里さんは受け入れてくださるのですか?」
「卑屈にさせてしまってすみません。もしよければ、孤独を分かち合いませんか?」
「相当、辛くなると思いますよ」
「それでもいい」
紫は笑った。そこには少し期待もあったのかもしれない。嬉しさがわずかに含まれていた。
***
緻里が家に帰ると、紫が食事を作っていた。
「あなたは、なんでもそつなくこなすから、わたくしやることがなくて」
「御笠とは違う?」
「あの人は、ああ見えてあなたより几帳面なんですよ」
「似てる?」
「兄弟みたい」
紫は笑った。
「あの人は、本当にボンボンなんです。わたくしのことが好きだから、気前よくするのがマナーだと思ってる。あなたとは違います。あなたは、気持ちがこもってるから」
「御笠は浮気もするしね」
「そうね。でもそれも、わたくしからすると可愛いですけど」
零落する令嬢、友人の恋人、そして思純ではない人。
「いい歳なのに、お相手は?」
「ずっと一人だ」
「緻里さん、わたくしふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします」
客あしらいの深いお辞儀ではなかった。微笑みはあくまで素で、そこにはラフな親しさが混じっていた。かわいいと、もしかしたらそういうのかもしれなかった。




