五十二章《紫》
「制約の言語回路」五十二章《紫》
「君を置いてバスに乗るよ」
バスってなんだろう。どうして僕を置いていくのか。小さなことなんだろうか。どうでもいいことなんだろうか。置いていかれるのは嫌だし、心が軋む音がする。
そう言ったのは思純ではなく嬢憂だった。
嬢憂は常に緻里のアンチテーゼになる。
「くだらない人間になったね」
そう悲しそうに言う。
何度も同じように緻里を難じる。そこにはいつもほのかな心の疼きがある。ひっかかれるのに似ている。指が皮膚をかき散らす。音楽を奏で、歌詞を埋め込む。
「このバスでなければいけないところがあるの。知ってる?」
「そこにはもう行きたくない」
「どうして?」
「だって嬢憂が行くんだろう?」
「あなたは?」
「もうどこにも行きたくないんだ」
バスのドアが閉まる音がする。ガラスの向こう側にいる嬢憂の顔はもう見えない。少しだけ後悔する。もしかしたら何かの資格を、所与のものとできたかもしれない。今より少しばかり退屈な人生を享受できたかもしれない。複雑さは罪だ。なんの成果も得られずに、何の答えも見出せない。ただ有り様として複雑であるということだけが、複雑性の意味だ。
整序された世界を緻里が夢見ることはない。そもそも単純化する必要なく、緻里は世界を受け入れている。
***
「緻里、久坂をのぼらないか?」
御笠は緻里を歓楽街へと誘った。久坂は「のぼる」と言う。西都へと向かうことを昔は「のぼる」と言った。第一都市の中の西都の飛び地が久坂で、妖艶な女郎がお酌をしてくれる。坂と名前についているから、自然なコロケーションなのかもしれない。
「御笠、勘定だけは割ってほしい」
「気にするなよ緻里。些細なことじゃないか」
「女遊びで借りを作って、肝心な時に返せないんじゃ問題だろ?」
御笠はにやりと笑う。
「気づいた?」
「君のことはよくわかるよ」
「だろうね。でも、気を悪くしないでほしい。おそらく今回の久坂の勘定は、僕が持ったほうがいいよ」
「怖い怖い」
研究室にいた学生が、不思議そうに御笠を見て、「先生、そんなふうに嬉しそうにするんですね」と言った。虚心にそう思ったらしい。思わず口にした言葉だった。
無邪気な笑顔を咎められた気がしたのか、御笠は口をへの字に曲げた。
笑顔を見せるのはいつものことでも、それが御笠の虚栄心から来るものだと、わかる人にはわかる。でもその学生は、御笠のことを咎めようとしたわけではもちろんなかった。
久坂。第一都市の南、坂の多い守谷の落ち窪んだ翳りの中に、心を鎮める色合いの、灯籠が灯る。
第一学府から、環状線に乗って守谷まで。そこから歩いて谷を下る。
「緻里、君はそういう風に歩くんだ」
「軍人には見えないだろう?」
「そうだね。少し浮いている?」
「この谷には風が渦巻いている」
「つまり?」
「体が疼くよ」
雨門という名前の店だった。
店の中に入る。狭い守谷にあるのに、広い店内だった。
「おこしやす」
「こんばんは」
「御笠さん、お友達どすえ?」
「そうや。緻里、自己紹介どうぞ」
「緻里です」
「なにやってはりますのん?」
「軍人です」
「あら、御笠さんこの前言ってはりまへんでしたか? 《僕はこの世で軍人が一番嫌いなんだ》って」
「安澄さん。そう言ったかもしれませんけどね、ここでいうてくれはりますのん? なにもここで」
「御笠さんの思い通りに世界は回りませんえ。どうぞ、お座敷用意してます」
廊下を通ると、襖の向こうの声がする。賑やかで楽しそうな声だった。
西のアクセントが柔らかく響く。
座敷に入るとすぐに御笠は上座に座った。
食事の用意ができており、一皿一皿運ばれてくる。手の込んだ料理で、それだけで破格の値段がしそうだった。
安澄と呼ばれた管理人は、部屋に女郎を一人連れて入ってきた。
綺麗な着物。舞妓とは違い白粉をまぶしてはいなかった。膝をついて深々とお辞儀をする。美人だった。
「お久しぶり、御笠はん。お初にお目にかかります、緻里はん。ご友人で?」
御笠はお猪口を口に回しながら、緻里をチラリと見た。緻里の手番らしい。
「ええ。緻里といいます。友達というほど付き合いはないけど」
「御笠さんが、ご友人を連れるなんて、まずないです。ようく知り合った仲でいはる。どうぞご贔屓に。紫と申します」
食事を済ますと、卓が設けられ、石の碁盤が二枚敷かれた。ジャリと、碁石の音がして、二組。どちらも紫が白を持った。
「コミはありません。私は強くて強くて」
白い肌、目尻にほくろがあり、目は垂れていた。
「緻里、大陸にいたんなら碁ぐらい打てるだろ?」
「昔から好きだ。相手がいないのに苦しくなるくらいにはね。なんだ、打倒紫さんで、御笠と練習すればいいんだね?」
「紫と呼んで、《さん》なんてつけないでおくれやす」
表情は変わらない。お酌をする所作が、あまりにも綺麗で、緻里は生唾を飲んだ。酒も、飲みやすくて何杯も何杯も空にして、その度に、一手打ち、緻里が考えているうちに、視線を動かさずに酌をする。
「紫、緻里は、強いのか?」
「お強くて、ほだされてしまいそう」
「悪かったね。僕は弱いよ」
「御笠はんは、可愛くて、いつもムキになって私の手を咎めてきます」
丹のある唇が、柔らかくアーチを描く。
そういえばこの部屋に時計がない。緻里は腕時計を見ようとしたが、初めて視線が合った紫に、首を振って止められた。ここには時間の流れがない。
(もう少し我慢して)
浅い息でこちらにだけ声を飛ばされる。
雪女のようだった。
肉付きの良い体、白い肌、赤い唇、黒くて長い髪。肉欲をそそる。呑み込まれてはいけないと、緻里が思う前に、冷たい酒が理性を奪っていた。
「負けました」
音を上げたのは緻里だった。ふうと一息吐くと、髪をかきあげてどこに向けるわけでもない笑みを浮かべた。心底面白いというように。
「お強くて」
「とんでもない」
「また来ておくれやす」
「もしまた、御笠がその気なら」
「あなただけでも」とは言わなかった。緻里は一見の客なのだ。
「ひどいな、負けました」
「御笠はん、ご苦労さんでした」
「紫、……君はいつ」
言いかけて御笠は止めた。君はいつ、地獄から逃れようとするんだ? そんなところにいて、幸せになれるはずないのに。
「いつも優しくて、こんなふうに。ねえ? 泣きそうになることも、ないことはなくて。御笠はんみたいなお大臣に、お輿入れ? でもわたくしは、」
「誰を待ってるのか知らないが、それが目の前の男だと気づくといいよね」
襖が急に衝撃に押された。
石の碁盤にきらめく碁石が、衝撃で吹き飛ばされる。ごうごうと空気を撹拌する緻里の術式は、こちら側に倒れる襖を逆に押し返さんばかりだった。
紫の体には御笠が覆いかぶさる。それは咄嗟のことだった。
緻里はおもむろに立ち上がると、無表情のまま矢面に立った。
誰も声を発しない。深い階層にある雨門に雨が降り届き、嵐が、龍のように下へ下へ潜る。
ほおーん、ほーおんと笛の音。ガタガタと木造の障子の枠が震えると、ばきりと風が折る。
遠くで怒声がした。
ドタドタと人が走る。
術式でコーティングされた「槍」が降ってくる。緻里は雨粒を凍らせてそれを弾く。
(久々に術式を使うな)
緻里はぼんやり考えた。
「正面右32度、術師がいる」
御笠が叫んだ。




