五十一章《鶴と北極熊》
「制約の言語回路」五十一章《鶴と北極熊》
ノックしてくぐもった返事を聞き取ると、御笠は勢いよく局長室の扉を開けた。
その顔に緻里は覚えがあった。でもとっさに誰かはわからなかった。
「緻里くんだね?」
局長の辰柿は短い白髪に手をかざした。美しい敬礼だった。思わず緻里も敬礼を返した。
「緻里くんの父上、代風教授は、私の先輩だった。先生は大学に残られ、私は軍に。まるで息子が帰ってきたような安堵に包まれている。息子とは言い過ぎだったか、失礼」
緻里は笑顔に何の含みもないことに、辰柿と同様に安堵を覚えた。
「緻里と申します。局長の纏う風が薫ります。お会いしたことがあったりするのでしょうか?」
「かなり昔にね。ようこそ言情研に。辰柿と言います。軍を退役した後、この大学に奉公している。私は第一都市の出身で、第一学府を出ている。勉強があまり好きではなくてね、院には行かずに入隊した。代風先生は風がお好きだった。私は大地や地形が好きで、陸軍の地理将校だった。緻里くんが生まれた頃、先生に顔を出した時、私は陸軍少佐だった。先生はとても幸せそうだった。君が大陸に消えた時、先生は当然悲しそうにしていた」
緻里はうなずいた。
「何か持ち帰ったかい?」
「案外粗末なもので、びっくりしています」
「何が?」
「言葉というものが、何もできないのだと」
後ろで御笠が笑った。
「嫌だねえ、哲学だねえ」
「すべての技術は不便な言葉のやり取りによって成立している」
辰柿の言葉に緻里はうなずいた。
「教養だよね。わかるよ。教養が一番役に立たないんだって、ふふ、ほんと? そんなことないよ。緻里だってわかってるでしょ?」
「さあ」
緻里は笑った。
***
御笠と緻里は次第に仲良くなった。「府属」の高校を出た同士だからか。そして二人とも人生にあまり悩まないのか、酒の席でも悪口は出ない。
様変わりした第一都市を、御笠に案内してもらうのは、とても楽しいことだった。
御笠は案外女遊びが好きで、クラブに顔を出すことしばしば。緻里もお付き合いで席を共にした。
酔っても決して言葉にしないが、御笠はかなりの素封家のようで、給料に倍する遊興費を使っても、応えない。
それとともに御笠には恋人の存在のにおいもした。
幼い御笠の振る舞いと対極の、ツンとした大人の女性なんだろう。想像に難くない。
水煙が立つ雨の日に、憮然として歩き、研究室に入っていく御笠を見た。
追いかけて声をかけるといつもの通りで、緻里は少し困惑した。
「さっきはどうしたのさ」
緻里は聞いた。
「さっき?」
御笠はふっと鼻息を吐いた。
「ああああ、さっきね。さっきって?」
御笠は特徴的な笑い声をくぐもらせた。
「雨の中傘もささずに」
「いやだなぁ、緻里。恥ずかしい。人の目がなければこんなもんさ。とても個人的な人間なんでね」
「マッドなんじゃなかったの?」
「人間さ。嫌なことがあれば脆いものだよ。見られたくなかったなあ」
「……そんなふうに簡単に切り替えられるんだ」
「僕は、優しい人間だよ。人に迷惑はかけないんだ。個人的なことは僕の感情のヒダで、本当に大事なことなんだ。緻里ならわかるだろ?」
「なにか嫌なことがあったのか?」
「それを聞いてどうする?」
強い語気だった。表情が柔らかいのが、いびつに映る。
「息苦しくないのか?」
「苦しみを経ることがなければ人は何も達成できない」
「単なる苦行に意味なんてない」
「君とてそうじゃないのかい、緻里。君だって誰かを待っているんだろ?」
緻里はしばらく考えた。御笠の言葉は正鵠を射るものだったが、緻里はそれをその通りには受け止めなかった。
「誰かを待っているわけじゃない。もうそこにいてほしい人がいないだけだ」
「そちらの方が正確かもね。いいよ、緻里。コーヒーでも飲もうか」
御笠は研究室のポットからお湯を汲み、緻里にもカップ一杯のコーヒーを供した。
研究室の窓を開けて、湿気を部屋に入れた。
緻里は御笠の指が描く術式を、今度は念を入れて追いかけた。
術式の輪郭から、御笠が、最近では珍しい「学者」であることがわかる。優しい色合いに光るその指先の術式は、理論ではなく物語によって構成されていた。
典型的な学者。自分にとっての意味合いを暗号に使っている。不落の自己世界を構築して、籠城しているのかもしれない。
「大陸のナンバースクール」
御笠は言った。
「うん?」
「それ、解析だよね?」
「ごめん」
「いや、別にいいよ。大陸では術式の解析を学ぶらしいね」
「計算問題を解くようなものの場合と、特有のにおいを追いかけてひらめきが必要な場合の二つがある」
「ふうん、面白い」
「島国は徹底的に《異能》主義だから、術式の体系には違和感を覚えるだろうね。御笠はかなり独特の物語空間を秘めている」
「物語というふうに理解するのは、少し間違っている。僕の《構築》は数理的なものだよ」
「ずいぶん込み入った理論みたいだね」
「僕だけがやっている研究の《粋》だからね」
誇ることなく言ってのける。御笠は島国の頭脳だった。
体系とはズレて、教育ではカバーしきれない能力を、緻里は《異能》と呼んだ。
才能や地頭、俗に言う天才が、島国の歴史を作り上げてきたことは、平準化の圧力やおためごかしの綺麗事を重ねても、なお否定することはできない。身もふたもないことを言えば遺伝ということになるのだろうか。
いくら努力を積み上げても、多くの人は壁にぶち当たる。誰も彼もが緻里や御笠みたいな専門家になれるわけではない。
……それは本当だろうか。緻里や御笠は、単に才能だけでその地位に座っているのか? 答えはノーである。
才能だけでは生きていけない。塗り重ねた努力を以て、実力とする。
御笠は、あの飄々とした空気だから、逆に彼の努力している姿が、緻里にはありありと浮かぶ。
伝え聞くところでは、府京は府月や府陽とは違い、奇抜さを好むという。
緻里は第一学府の出身ではないから、確固としたことは知らない。でも、府京出の第一学府の学生は、その思考の柔軟さで、一目置かれることがしばしばあるらしい。そういう学生が、一番努力していること、その奇抜さが努力の成果であることを、ややもすると見逃してしまう。
慇懃に遇されると不満そう。御笠は話し相手に楽しんでもらいたいのだ。
「御笠は鶴みたいだ」
「褒めすぎだよ」
対等な立場がまず難しい。御笠に匹敵する頭脳は、そもそも存在しない。ことは受験のような横並びのレースではない。独創性と創造性に、論理と哲学と科学を混ぜた、一人だけしか持たない世界を、持ち合わせているかどうかが問題なのだ。
御笠が好意を持って緻里と話すのは、自分が経験した孤独や苦労を、違う形であれ、深く経験していると感じるからだった。
相似形であり、深いところのメタファーが通じる。
「緻里は北極熊」
「なんじゃそりゃ」
二人はくつくつと笑った。
高校時代に戻ったみたいだった。