五十章《交換》
「制約の言語回路」五十章《交換》
空母が海都の港につけたことを、緻里は風景を以て知った。
それは、緻里の大学時代の景色といささかも違わなかった。
何度も飛び、何度も駆けた思い出の町。そこに、誰一人として知っている人がいないだろうことを、残念に思うばかりだった。
夕陽が光のアーチを空母の甲板にかけた。
とん、と背中を押された。甲板で交換される捕虜は、緻里以外にも何人かいた。島国の方からも、捕虜を並べていた。一人ずつ、慎重に、捕虜は交換された。
目で見てもわからないけれど、それは龍の背中で鼻腔をくすぐった女の香りだった。目で見れば、すなわち涙が視界を覆い、確かめることはできなかった。涙の理由を尉官たちは勘違いしたかもしれない。大陸の人々は故郷を大事にする。島国の都市民が自分と違うことを、大陸の人間は想像できない。
「思純」
「久しぶりだね緻里」
二人が交わしたせりふは、わずかにこれに限られた。
大人びた思純の声を、緻里は強く記憶に刻み込もうとした。風が運ぶ香を、なんとかして残したかった。夕陽の逆光が陰影を深くして、思純の顔は見ることができなかった。
思純は笑っているように見えた。
過去は彼女には過去のままで、現実とほとんどつながりがないのかもしれない。
直感的にわかるのは、思純もまた多くの島国の人々を屠ったということ。
でも敵だとは思いたくなかった。事実はしかしそれと反する。思純はあちら側に立ち、緻里はこちら側にいた。
捕虜交換の儀式が終わると、緻里たちは海都へと降りた。歓迎する人々の列の中に、嬢憂がいて、彼女は子供を抱いていたのだ。
***
「おかえり」
嬢憂は言った。一体何年経ったのだろう? 緻里はそう思った。嬢憂は少し肉がつき、肩が丸みを帯びていた。
「ただいま」
「変わらないのね」
「残念ながらね」
「いつまでもあなたの天才だった時のことを思い出す。失礼よね」
「失礼ではない。覚えていてくれるだけでも嬉しいさ」
「緻里、あなた私があなたのこと好きだったって知ってた?」
「知ってたさ。ただ怖かっただけで」
「確かにあなたは怯えていた。それがなんでなのか、私にはとんとわからなかったけど」
「それは僕にもわからない。本能的なものだから」
嬢憂は相貌を崩し、苛立ちを口にした。
「本能?」
単なる疑問符ではない。敵意を持った語調だった。「私と一緒だと幸せになれないという、本能ってこと?」
「嬢憂の前で、僕は主体性がなくなる。それがこの上なく嫌だった。君にまたがられることを想像すると、すごく嫌な気分になった」
「理想が高いんじゃない?」
嬢憂は投げやりに言った。「それか、男根的な観念が抜けないんじゃないの?」
「そうかもしれない。でも嬢憂と話す時に色香がまぶされて漂ってくるのは、愉しかったよ」
嬢憂はゆっくりと握り拳を緻里の胸に押しつける。遺憾の意とともにいくばくかの反省を込めて。
「ごめんね、緻里。つらかったよね」
「つらかったよ。君と一緒にいられないなんてね」
嬢憂は指を握りしめた。
「それは本当にそう思っていたの?」
「諦めたんだ。落ちぶれたから」
「私がそう言ったから、そう思ったの?」
「そうだ。僕は一度も誰かに劣後しているなんて思わなかった。選択に後悔はないし、選択しなかったことを嘆きもしない。嬢憂は僕が劣等と化したとある時言ったよね。それは実に意外なことだった。悩んだし、今でもそらはちらつく。まるで人生の若い時分に、何かを達成していなくちゃいけないみたいな勘違いをもたらした。そしてそれは、人生には何の関係もない指標だった」
「あなたのことが好きだった」
「同じ気持ちだったよ。でもどうでもいいとも思った」
「あなたの心の中の、何番目だったんだろう?」
「そういう風に考えるのは、幸せになる方法なのかな?」
嬢憂は苦い顔をした。それから笑った。赤みの差した顔についた頬の肉。子供を抱えることで自分を守り、間接的に緻里を守っていた。
***
第一都市に帰った。父は退官していて、余生を本に囲まれて過ごしていた。
父のような王道の人生ではない。いただいた才能を空費してしまったのではないかと、危惧することはあった。
軍に戻ることはほとんど既定路線だったが、許されるなら大学で教育に携わって生きていきたいと思った。
そのように進言すると、期限付きで第一学府の言語情報研究局(言情研)に少佐として配置された。
第一都市は変貌を遂げていたし、大学の研究機関も、大学中心とは肌感覚が違う。
大学中心で成果を求められたことは、記憶を遡る限り一回もないが、第一学府の言情研では、一日一日が勝負だった。
大陸語に関する新しい知識を吹き込まれ、地方の方言や、それを元にした暗号の解読など、実に様々な「学究」があった。
大学に付属する研究室だったが、学生は多くが二十代後半で、何か仕事を持っている人が大半だった。
「なんやぁ? あんさんそぉんな綺麗な標準語で話されましてもぉ、わてわかりまへんて」
御笠は笑って緻里の肩を叩いた。
「冗談冗談。そんなに睨まないで。いやしかし、純粋な都会人って感じがするね。第一都市が故郷、そうでしょそうでしょ? であれだ、北城市に留学している数少ないお人。聞いとりまっせ、噂はかねがね。それでさらに島国のエースストライカー。ううー、いいねえ。御笠といいます。少佐よろしくね」
ぽかんとしてしまった。
「あはぁ、びっくりしているねえ。学者はマッド? そうかもそうかも?」
「いつもそんなににこにこしているんですか?」
「にこにこ? 普通普通。あ、それもしかして皮肉だった? 気づかなかったなぁー」
緻里は軽く引いていて、うまく言葉が出てこなかった。
「気軽に御笠と呼んでください。少佐は年も近いことだし、くふふ」
「御笠さんは……」
「御笠でいいですよ、少佐」
「少佐でなくてもいい、緻里と」
「緻里のことは少し知っていますよ。府月、大学中心から軍、大陸の捕虜となり今に至る」
「概ねその通りだよ。その代わり、僕は御笠のことを一つとして知らない」
「僕は府京から第一学府に来ました。田舎も田舎の田舎者。ここで准教授をしています」
「まだ若いのに?」
「それを自分で言うのは、勇気要る。くふ。その年齢で佐官とは?」
「末席も末席」
「さすがっ、都会の方は謙遜がお上手でいてはりますなぁ」
「府京のコミュニケーションに俄然興味が出てきたね」
「府月のお兄やんも、なかなかに煽り慣れてますなぁ」
「そんなに語尾を丸めないでよ」
「緻里、面白いこと言うね。丸めてないよ。イガグリ並みにトゲトゲ」
短い言葉で打ち解けた。
「ここでは、大陸語を研究する」
緻里は御笠に確認する。
「文献的なものではなくね。それを緻里には期待する。北城方言。音声として残せるものは全て残す。今どき大陸住みなんてSSRだよ」
「そう思う?」
「そりゃそうさ、城市大出身者の何割が北城市出身か知っているかい? 第四や第二の生徒が、結局は軍を占め、官界を占めている。緻里に言うまでもなく、彼らはナンバースクールの閥族さ」
御笠は指で合図して、緻里を動かした。少し特異な術式だったから、その解析はできなかった。でもそれを、御笠が意識的に使っているとも思えなかった。指揮者のように指先に注意を向けることができる。
「言情研局長室」
御笠は、意思を伝えるのに、あまりにそっけない。
緻里は御笠が白衣を着ているのに今更ながら気づいた。