表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/183

四十九章《私》

「制約の言語回路」四十九章《私》


 イヤホンを外すと、風景が違って見えた。


 外は春風が梅の花を散らし、うっすらと曇る空が割れて、青空が垣間見える。


 龍が乱舞するために閃光が飛び散り、こおんとうなり声が聞こえる。


 緻里は、机の上にイヤホンを置き、外へ出た。


 雨がザァザァと降っていた。


 青空からその青がそのまま降りてきて地面を濡らした。


 牢獄とも言える緻里の部屋の戸を、叩く音がした。


「你好」


「你好」


「緻里先生、少しご同行くださいませんか?」


 武官。若い、端正な顔をした武官。胸のバッジは階級を少尉と示している。


 大学の敷地を出たところに、運転手が傘をさして、車をつけている。外交官ナンバーのそれは、ピカピカに磨かれていた。


 頭を落として車に入ると、視界の端に教え子を認めた。教え子は走って緻里に合図した。


「さよなら」


 風を吹かせたから届いたかもしれない。


「緻里先生!」


「走吧-Zou ba-」


 少尉は官僚にありがちな横柄さで、運転手に出発を命じた。「緻里先生は、とても慕われていますね」と微笑む天使の顔を兼ね備えて。


 緻里の半身は固まったままで、今が何時かもよくわからなかった。


「僕を殺し切る方法がわからなかった?」


「それに近いかもしれません。でも、あまり頭を働かせすぎないように。あなたが北城市を《俯瞰》できることを、知らないわけではありません。術式を使って座標を特定するのは、そうですね、ここでは《ルール違反》とさせていただきましょう」


「少尉、名前を聞いても?」


「観糸です」


 観糸かんしは余裕たっぷりの笑みを浮かべる。きっと生い立ちが良くて、自然に出てしまうのだろう。気持ちのいい笑みだった。青ざめる時もわかりやすく顔に出そうだ。少し穿ちすぎかもしれないが、外れていないと緻里は読んでいた。何につけ饒舌。情報が溢れてしまうことに、上司も手を焼いているのか、あるいは、緻里に対する絶対的優位が、観糸の口の糸を綻ばせてしまうのか。


「どうでしたか、大陸は。会いたい人に会えましたか?」


「会いたい人がいたことをさっきまですっかり忘れていた。少尉は、会いたい人に再会する方法を知っていたりするのですか?」


「教師になるのは正道ではないと考えます。大事な人が増えますから」


 緻里は笑った。面白いというよりその答えが事実だったから。


 緻里は、陽成が帰ってくる前に北府外語大を離れることになったのを、とても残念に思った。彼には不幸になってほしくなかった。


 一人一人の生徒に、思い入れがあった。その重なりが、若い時の思い出が頼りの恋愛を、深く静かなところへと沈殿させた。


「これから行く場所のことを説明します」


「話せる範囲でどうぞ」


「気を利かせていただいたようで。……北城市の港は言わずと知れた皇港です。皇港に行かれたことは?」


「ありません」


「いい街です。軍港ということもあり、何度か空襲にさらされもしましたが」


「皇港が目的地」


「そういうことです」


 車は徐々にスピードを上げた。


 車中で観糸はさまざまな話をして、「楽しませて」くれた。話しぶりからすると、観糸はとてもモテるようだ。そのことに気づいているのか、天然なのかはわからないが、表層的と切って捨てることができない観糸の魅力が、緻里にも伝わってくる。話が上手いし、楽しんでいることが伝わる。「私だけのこの人」を、ある種の女の子が心の中に構築してしまうのは、容易に理解できた。


「皇港には士官学校があります。ご存知ですか?」


「想像するに、少尉はそこの出身なんでしょう?」


「話が早いですね。そうなんですよ」


「伝え聞いたことがあります。城市大より倍率が高いとか」


「将来が見えますから。大陸はまだ貧しい人もいます」


 観糸は自分の言葉に何回かうなずく。


「でも少尉は貧しいわけではない」


 観糸の自然な笑顔が何を語っているのか、緻里はわからなかった。


「緻里さんは、私たちを殺して、何を思いました?」


「何も思わない。育てる時に育て、殺す時に殺す。タイミングの問題だし、効率も何もあったものではない」


「今でも、あなたは軍人ですか?」


「僕はさっきまで教師だった。でもそれは、過去の事実であって、たとえ僕が今でも教師だとしても、僕に降りかかる責任は、僕を軍人にするだろう」


「軍国主義的ですね」


「島国の人間だから」


「あなただからです。きっとあなたの周りの多くの人が、あなたが幸せになることを祈っているというのに」


「そんなことは僕には関係ない」


 嬢憂や言雅の顔が浮かぶのを、緻里は必死に打ち消した。二人のことを思い出すのもしばらくぶりだというのに。


***


 皇港に降りると、暖かい風が緻里の頬を撫でた。風も陽気で喜んでいるのかもしれない。観糸に従いタラップを歩み、空母に乗艦する。


 もう何年も見ていない、島国の土を踏むことになると、緻里は期待した。


 艦長の前に立つ。緻里は敬礼した。艦長も敬礼を返した。


 船は緩やかに進み、緻里はあてがわれた部屋で本を読んで過ごした。


 何人かの尉官が連れ立って緻里の部屋を訪れる。緻里の大陸語に感心しつつ、島国のことをいくつか聞いた。


「もう、何年も離れているから、あの国がそのままの形を保っているとは思えない」


「緻里さん、私はそういうことを聞いているわけじゃない。島国の人々のメンタリティについて聞いている」


「とても流動的だ。定型というものがない」


「それは具体的にはどういうことだ?」


「諸君は島国の軍人を撃ち落としたことはないのか?」


 尉官たちは曖昧な笑みを浮かべた。


「こういうのはなんだが、わからなければ島国の軍人を撃ち落とすことはできない。相手のことがわからなければ、撃ち落とすことなど絶対にできない」


 緻里は断言した。


「島国の軍人は宇多田ヒカルを聴くのか?」


「聴く人もいるだろう。そうじゃない人も多いと思うが」


「緻里さんが我々の同志を撃ち落としたのは……」


「大陸のことを知り、大陸語を知っていたからだと思う。知らなければ戦争には勝つことができない」


 緻里は親切に教えてあげたかった。エピソードを、懇切丁寧に伝えてあげたかった。そうすることもできたが、しかし尉官たちはわからないだろうとも思った。


 そういうのは「国民性」とは違う。想像力の及ぶ範囲が問題になるのだ。


「故郷に戻るのは楽しみか?」


「ある意味で。故郷が懐かしい気がする。実感はわかないけれど」


「緻里さんは、私たちと戦い続けるのか?」


「それは私が聞きたい。あなた方は私と戦い続けるのか?」


 緻里の言葉には「私たち」ではなく「私」と刻まれていた。緻里は島国を代表している。でもそれは、緻里にとってはごく個人的な戦いで、私的な闘争だった。「あなた方は私と戦い続けるのか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ