四十九章《私》
「制約の言語回路」四十九章《私》
イヤホンを外すと、風景が違って見えた。
外は春風が梅の花を散らし、うっすらと曇る空が割れて、青空が垣間見える。
龍が乱舞するために閃光が飛び散り、こおんとうなり声が聞こえる。
緻里は、机の上にイヤホンを置き、外へ出た。
雨がザァザァと降っていた。
青空からその青がそのまま降りてきて地面を濡らした。
牢獄とも言える緻里の部屋の戸を、叩く音がした。
「你好」
「你好」
「緻里先生、少しご同行くださいませんか?」
武官。若い、端正な顔をした武官。胸のバッジは階級を少尉と示している。
大学の敷地を出たところに、運転手が傘をさして、車をつけている。外交官ナンバーのそれは、ピカピカに磨かれていた。
頭を落として車に入ると、視界の端に教え子を認めた。教え子は走って緻里に合図した。
「さよなら」
風を吹かせたから届いたかもしれない。
「緻里先生!」
「走吧-Zou ba-」
少尉は官僚にありがちな横柄さで、運転手に出発を命じた。「緻里先生は、とても慕われていますね」と微笑む天使の顔を兼ね備えて。
緻里の半身は固まったままで、今が何時かもよくわからなかった。
「僕を殺し切る方法がわからなかった?」
「それに近いかもしれません。でも、あまり頭を働かせすぎないように。あなたが北城市を《俯瞰》できることを、知らないわけではありません。術式を使って座標を特定するのは、そうですね、ここでは《ルール違反》とさせていただきましょう」
「少尉、名前を聞いても?」
「観糸です」
観糸は余裕たっぷりの笑みを浮かべる。きっと生い立ちが良くて、自然に出てしまうのだろう。気持ちのいい笑みだった。青ざめる時もわかりやすく顔に出そうだ。少し穿ちすぎかもしれないが、外れていないと緻里は読んでいた。何につけ饒舌。情報が溢れてしまうことに、上司も手を焼いているのか、あるいは、緻里に対する絶対的優位が、観糸の口の糸を綻ばせてしまうのか。
「どうでしたか、大陸は。会いたい人に会えましたか?」
「会いたい人がいたことをさっきまですっかり忘れていた。少尉は、会いたい人に再会する方法を知っていたりするのですか?」
「教師になるのは正道ではないと考えます。大事な人が増えますから」
緻里は笑った。面白いというよりその答えが事実だったから。
緻里は、陽成が帰ってくる前に北府外語大を離れることになったのを、とても残念に思った。彼には不幸になってほしくなかった。
一人一人の生徒に、思い入れがあった。その重なりが、若い時の思い出が頼りの恋愛を、深く静かなところへと沈殿させた。
「これから行く場所のことを説明します」
「話せる範囲でどうぞ」
「気を利かせていただいたようで。……北城市の港は言わずと知れた皇港です。皇港に行かれたことは?」
「ありません」
「いい街です。軍港ということもあり、何度か空襲にさらされもしましたが」
「皇港が目的地」
「そういうことです」
車は徐々にスピードを上げた。
車中で観糸はさまざまな話をして、「楽しませて」くれた。話しぶりからすると、観糸はとてもモテるようだ。そのことに気づいているのか、天然なのかはわからないが、表層的と切って捨てることができない観糸の魅力が、緻里にも伝わってくる。話が上手いし、楽しんでいることが伝わる。「私だけのこの人」を、ある種の女の子が心の中に構築してしまうのは、容易に理解できた。
「皇港には士官学校があります。ご存知ですか?」
「想像するに、少尉はそこの出身なんでしょう?」
「話が早いですね。そうなんですよ」
「伝え聞いたことがあります。城市大より倍率が高いとか」
「将来が見えますから。大陸はまだ貧しい人もいます」
観糸は自分の言葉に何回かうなずく。
「でも少尉は貧しいわけではない」
観糸の自然な笑顔が何を語っているのか、緻里はわからなかった。
「緻里さんは、私たちを殺して、何を思いました?」
「何も思わない。育てる時に育て、殺す時に殺す。タイミングの問題だし、効率も何もあったものではない」
「今でも、あなたは軍人ですか?」
「僕はさっきまで教師だった。でもそれは、過去の事実であって、たとえ僕が今でも教師だとしても、僕に降りかかる責任は、僕を軍人にするだろう」
「軍国主義的ですね」
「島国の人間だから」
「あなただからです。きっとあなたの周りの多くの人が、あなたが幸せになることを祈っているというのに」
「そんなことは僕には関係ない」
嬢憂や言雅の顔が浮かぶのを、緻里は必死に打ち消した。二人のことを思い出すのもしばらくぶりだというのに。
***
皇港に降りると、暖かい風が緻里の頬を撫でた。風も陽気で喜んでいるのかもしれない。観糸に従いタラップを歩み、空母に乗艦する。
もう何年も見ていない、島国の土を踏むことになると、緻里は期待した。
艦長の前に立つ。緻里は敬礼した。艦長も敬礼を返した。
船は緩やかに進み、緻里はあてがわれた部屋で本を読んで過ごした。
何人かの尉官が連れ立って緻里の部屋を訪れる。緻里の大陸語に感心しつつ、島国のことをいくつか聞いた。
「もう、何年も離れているから、あの国がそのままの形を保っているとは思えない」
「緻里さん、私はそういうことを聞いているわけじゃない。島国の人々のメンタリティについて聞いている」
「とても流動的だ。定型というものがない」
「それは具体的にはどういうことだ?」
「諸君は島国の軍人を撃ち落としたことはないのか?」
尉官たちは曖昧な笑みを浮かべた。
「こういうのはなんだが、わからなければ島国の軍人を撃ち落とすことはできない。相手のことがわからなければ、撃ち落とすことなど絶対にできない」
緻里は断言した。
「島国の軍人は宇多田ヒカルを聴くのか?」
「聴く人もいるだろう。そうじゃない人も多いと思うが」
「緻里さんが我々の同志を撃ち落としたのは……」
「大陸のことを知り、大陸語を知っていたからだと思う。知らなければ戦争には勝つことができない」
緻里は親切に教えてあげたかった。エピソードを、懇切丁寧に伝えてあげたかった。そうすることもできたが、しかし尉官たちはわからないだろうとも思った。
そういうのは「国民性」とは違う。想像力の及ぶ範囲が問題になるのだ。
「故郷に戻るのは楽しみか?」
「ある意味で。故郷が懐かしい気がする。実感はわかないけれど」
「緻里さんは、私たちと戦い続けるのか?」
「それは私が聞きたい。あなた方は私と戦い続けるのか?」
緻里の言葉には「私たち」ではなく「私」と刻まれていた。緻里は島国を代表している。でもそれは、緻里にとってはごく個人的な戦いで、私的な闘争だった。「あなた方は私と戦い続けるのか?」




