四十八章《境》
「制約の言語回路」四十八章《境》
固形燃料で温められるティーポット。冷たいクラゲと棒棒鶏。控えめな程度に山盛りの前菜で、大学生四人を迎えるには十分すぎる。
牡蠣が卵に閉じられていて、空芯菜がニンニクとともに炒められて出てきた。
道綾が「ご飯が欲しい」と言う。白米が出てくる。角煮は白米で食べたいらしい。
鶏とアサリの出汁のスープが人数分。
水餃子は四人で二十四個も食べた。生姜の千切りが山のように添えられていた。この醤油の味、初めてだった。
レストランを出る時、料理人もウェイターも汽冬に礼をした。
「汽冬姉、また帰ってきてよ」
男の子は嬉しそうに言った。
「売上から私のお小遣いが出てるの。まるで自転車操業。清影は?」
「きっと下でタバコを吸ってますよ」
「ありがとう。また帰ってくる」
「ぜひお友達もご一緒に」
博座も道綾も笑顔を見せた。
俺たちは汽冬について、路地を曲がり、徐々に賑やかな場所へと下っていった。
屋台の食べ物の香りが漂ってくる。
土産物屋が軒を連ねる。ランタンが吊るされて光っていた。
汽冬は路地を一つ一つのぞき込む。そこには暗闇があるだけだと、親切心で言いそうになった。
「清影!」
「汽冬。帰ってきたの?」
「同学がぜひ私の故郷に来たいって」
「ふうん。楽しくやってるんだ」
特級の美人。リップは口紅で赤く、髪はキューティクルのある黒。胸は薄め。
タバコの箱をトントンと叩き、一本取り出すと、清影と呼ばれた女はそれに火をつけた。
少し浮かせたタバコの吸い口を、清影は汽冬に向けた。汽冬はそれを恭しくくわえる。火は自分でつける。
「いつもこんな不味いの吸ってるの?」
「癖になってんの。勝手でしょ?」
お兄さんもどう? と、清影は俺にタバコを向けた。トクンと心音が高鳴る。
「陽成はタバコを吸わない。僕が代わりに吸っても?」
博座が助け舟を出してくれた。
「龍は、あなたの龍?」
道綾が聞いた。……龍?
「驚いた。お姉さんには龍が感じられるの?」
「風の動きが尋常じゃない」
「風、風ねえ」
清影は一息また深くタバコを吸った。「故南の人じゃないよね、外人さん?」
「ええ。島国から」
さあさあと風が通る。上から下へ、風が降りてくる。
ピシリと閃光が走り、空が割れた。
空間が歪んで、龍そのものを見ることはできない。でもまとう風が、龍を意味していることを道綾は理解したようだった。
轟々と唸り声がして地面が揺れる。
「あなたが故南で一番強いの?」
「私は、夜城楼で慎ましく過ごせてればいいから。最強なんかに興味ないの」
その何もかもが気だるいと言わんばかりの態度が、実にかっこいいと俺の目に映った。
「お兄さんも外人さん?」
「外人は嫌いか?」
「いいえ、ここは外人さんが落としてくれるお金で、なんとかやっていけるの。そっか、留学生さんか。勘の悪いことで。私は勉強が苦手でね」
「そんなことなかったけどね」
汽冬は小さく漏らす。清影はそれを無視した。
「狭い世界でやってくのが、楽でいいんだ。お姉さんみたいに、たまに龍のことを聞いてくれると、励みにはなるね。ありがとう」
誰の顔にも目線をくれない。美人だ。
「珍しく饒舌」
「確かに。私も驚いている。でもいいね。大学に行けるとこんなにいい友達ができるんだ。そういう世界線はでも、汽冬がやってくれてるから」
なんとなくわかった。この清影という女性は、アンダーグラウンドから生きる養分を吸っている。汽冬と異なるルート分岐で、孤高の精神性が打ち立てられる。なるほど。マフィアなんだ。
博座が俺たちの斜め前で、ずっと動かない。警戒しているように見える。
そう思うと、汽冬も心なしか緊張している風で、表情が硬い。
「でも、私は清影のことがいつも気になっているから」
汽冬は言った。
「はは、ありがとう。本当に、いい従姉妹だよね」
「お互いにね。上のご実家にはもう顔を出した?」
「ええ」
「あなたの方がよっぽど……、まぁいいけど」
「マフィアの才能がある?」
「そんなことないか。私もよっぽどよね。また会いに来て。今度はタピオカでもおごる」
清影はそう言うと手を振って、路地の暗がりに消えていった。
***
夜の車道は、前を行くバスのテールランプを追いかける。街灯は、頼りにするには心細い。
「置いてかれないようにしないといけないのは、つらいつらい」
博座は冷静にハンドルを切る。
「こんなに長かったっけ!?」
汽冬が「崖の隊商路」に感嘆符をつける。
「私、バイクで学校に連れていってもらった時は、あっという間だったんだけど」
「背中が快適だったんだろ」
「バカね。博座、今の方が快適に決まってるじゃない」
「固有の物語の中にいる人は、感情を持たないし、時間の観念も空間の把握も希薄だ。物語と一体化しているから」
「それで?」
「文節化して把握すると、数を数えたくなる。場所に意味を付与したくなる」
「私が溶けていたって言いたい」
「中学生で溶けていなかったら、おそらく学校にはいけない」
「博座は、まだ溶けてるでしょ」
「そんな感じする」
汽冬の説に、道綾は同意した。
博座はふっと笑った。
山を下り切って、川を横目に車は走る。
路傍に生えている丈の長い木々が、ザワザワと風に揺れて音を立てていた。窓を開けて汽冬はタバコを吸う。
後ろの席だから気配しかわからない。でも、汽冬がさっきの清影の従姉妹だということを、ありありと感じさせる雰囲気だった。
というよりもしかしたら、最初からそういう風に汽冬は「語って」いたのかもしれない。あまりに自明なことで、見逃していたのかもしれない。
落ち着くと、車の中の四人は、バラバラの方向を向いていた。
***
自分の中で、日本が、とても国際的で抑揚に富んだ民族だと思ったのは、緻里先生や道綾のイメージが強いから。
道綾が話す東北の冷玲は違う。ふしくれだって、「素朴」とか「因習じみた」なんて表現では説明し尽くすことができないことを、その場に行ったことがない俺にも想像することができた。
行ったことのない大陸の内地も、そうであることがわかるから。
それは、わかっていることにならないと、当地の人は言うかもしれない。
それはそう。でも、概念的に理解できないなんてことはない。現地性を礼讃する必要はないと思う。
それに、都会で生まれたか、地方で生まれたかは、大人になると表出することもない。知識のエリアが違うだけで、質と量に著しい差が生じることもまたない。
道綾が、偶然故郷の友達と電話しているのを聞いた。話している言葉の七割が、全くわからない音で占められていた。
東北の方言だと道綾は言った。
「温州の方言が、大陸の人でもわからないのと同じ。私の土くさい冷玲弁なんて、島国の人でも、誰もわかんないと思うよ。でも可哀想だね。陽成は、故郷がないんだね」
「否定はしない。留保したい部分はあるけども」
「留保?」
「俺が話しているのは標準語ではなくて、北城方言なんだという留保」
「ああ、都会人のプライドね。たまたま首都になった場所が、偉いみたいな、ね?」
「そういうこと。言葉の運用能力が違うんだよな」
「ムカつくー」
道綾は眉間に皺を寄せて、それからカラッと笑った。
「道綾は、綺麗な標準語喋るよな」
「あらそう?」
「聞き惚れるよ」
「もっと褒めて」
「巻き舌とか奥鼻音とか、丁寧に発音してるし。汽冬とは違うよな」
「汽冬は、生粋の故南語を話すよね。私の先生は大陸の北の人だったから、陽成と発音が近いのかも」
「なんて先生に習ってたんだ?」
「思純先生」
「女性?」
「そう。すっごい素敵な北城方言を話されるの。捕虜なんだって言ってた。戦争の囚われ、虜囚なんだって」
「ふうん」
「陽成の先生は島国の人?」
「緻里先生。第一都市の人」
「そっか」
「何人も殺したんだって顔をしていた」
「わかるの?」
「そう言っていた。それが、そういう顔なんだって。俺は、同胞を殺した人から、言葉を学んだ」
「同胞なんて単語、島国じゃまず使わないよ」
「じゃあなんて言うんだ?」
「遠くの親戚より近くの他人」
「なるほど」




