四十七章《汽冬》
「制約の言語回路」四十七章《汽冬》
先般の雨で、鼻風邪を引いた。
薬も飲まずにぐずぐずとしながら授業に出て、俺は花粉症なんですみたいな顔で受けているから、誰にも心配されなかった。
熱もあったがとにかく体を動かし、風邪を追い払うためと思い食事をかきこんでいたら、胃を病んだ。
休日に予定がなかったわけじゃないが、悔しくも睡眠に費やした。
メッセージでは元気に振る舞うけど、実際は食事の買い出しにも不自由する始末。
気合いで食堂まで行き、鼻を詰まらせながら麺を啜る。
何回か息ができずにむせる。ショップで飲み物を大量に買い、その重さに後で気づき、寮までは引きずって持って帰っている気分だった。
口からこぼれるくらいに水を飲み、驚くほど汗をかきながら眠った。
何回か端末が鳴ったけれど、取ることはできなかった。
外は曇りで、いつ眠っていつ起きて、それからまたいつ眠ったのか、光量からは類推できなかった。
夜起きて、少し体が軽く、ベタついた汗をシャワーで流した。
端末に届いたメッセージを流し読みし、適当に返信した。
それから俺は、九情小姐のいる食堂に行った。
***
乾きが求める水と同じ量のカロリーを渇望していた。(0キロカロリーではない)
「五百元でおまかせとかってできる?」
「もちろん。ビールはいる?」
「アルコールは要らない」
「了解」
「あれ? 先払いだっけ?」
「后面、后面-Hou mian-。後で何か頼みたくなるかもしれないしね」
食事の隙間にチラチラと九情小姐を見る。
今日も男物のジャンパーを羽織っていて、引いた眉もかっこいい。
塩気の濃い海産物が、油と香辛料で香りづけされて運ばれてくる。
「焼きそば? 焼き飯?」
「焼き飯」
「了解」
「九情小姐、彼氏とかいんの?」
「……、いると思う?」
「すげえ美人だから」
「私の周りにはポンコツだけ。あんたは?」
「いねえよ」
「寂しそうな顔してる」
「小姐だって」
「やっぱそうかな」
九情小姐は頬を指でつまみ、引っ張ってから離した。「そういう顔してるか。口説いてるの?」
「いいや」
「思ったことを言うのは自由だけど、もしあんたが客じゃなければ、私も自由にものを言えるのよ」
「飯、うまいよ」
「私の手柄じゃない」
小姐はトンと焼き飯を置いた。
「スープ飲む?」
「ぜひ」
すぐに出てくる。温かくておいしい。
「あんた、若いよな」
「小姐は若くないのか?」
「見ての通り、若くないよ。でも私は、年齢のことを言ったわけじゃない」
「精神的にってこと?」
「単純だなと思うところはあるよ。強いがゆえにね」
「小姐は、若くは見えない」
それは彼女にとっては褒め言葉だったようだ。素敵なウィンクを俺にくれた。
***
「研究室に顔を出さない。私に会いたくない」
「いやいやいやいや、違うよ」
俺が道綾の軽口に付き合って、わちゃわちゃと会話していると、研究室の扉が開いた。
「お、またいちゃついてる」
故南夜城楼出身の汽冬が入ってきた。
「いちゃついてない!」
「そんな可愛い声出しても、男子といちゃついて許されるのは、高校生までだよね?」
冷淡に話している風な汽冬だったが、口元はむにゅむにゅと動き、仲間に入りたそうな雰囲気。
汽冬はカバンを床に置き、道綾の隣に座るとノートとペンを取り出した。
そのまますぐ一度席を立つと、コーヒーを淹れるために湯を沸かす。
俺が汽冬の背中を見ていると、わざとらしく道綾は鼻頭を持ち上げる。
ガチャリと扉が開いて、今度は男子。博座が立ち止まって、顔を動かさないまま辺りを見回すと、それから俺の隣の席についた。
道綾がカバンから菓子を取り出して回す。
博座はおもむろに本を開く。
「陽成、慣れたか?」
こちらを向かずに博座は聞く。
「まあね」
「道綾も汽冬も人が好い。この研究室は陽成を歓迎している」
博座が淡々と話す。
「ねえ、夜城楼行かない?」
道綾が言った。
「道綾、夜城楼好きよね」
汽冬が言葉を接ぐ。どうでもいいと呆れたの中間にあるため息を漏らす。
「前も案内してもらったけど、また行きたい」
「いいけど、私の運転でいいの?」
汽冬は博座をチラリと見る。
「私は構わないけど?」
道綾も博座の動静を伺う。
俺は汽冬の運転技術を知らないから、反応の仕様がなく、俺もまた博座を見た。
ムササビ式に本を置き、博座は俺たちを順に見ていくと、親切に今何が起きているか俺に説明してくれた。
「誰がやっても大変なんだ。細い道、山を巻く道路。一応命懸けだということを、陽成には知っておいてほしい」
「じゃあ博座、運転お願いね」
「汽冬、車は?」
「博座が運転するなら、博座ので」
博座は数秒汽冬をにらむと、不意に弛緩して優しい表情を見せた。
「ご飯はおごるから」
汽冬は言った。
「ほんと?」
食いついたのは道綾だった。「今月大変なんだよねー」
「島国から来といて何を抜かす。お父さん何してるんだっけ?」
「汽冬、酔っ払った時の言質を今使わないで、嫌いになっちゃうよ、もう!」
「それよく故南語で言えるな。順応がすごぉい」
道綾と汽冬のやりとりを尻目に、博座は俺に「気にするな。助手席は空けておく」とメモに書いた。
それがどういう意味なのか、俺は測りかねたけれど、とりあえず「ありがとう」と言っておいた。
***
片道一時間の夜城楼行は、生暖かい風にくるまって、楽しげに始まった。
ぼそぼそと言葉を交わす博座と俺の後ろで、道綾と汽冬はかまびすしい会話を繰り広げている。
「北城市から来ると、故南は暖かいだろう」
博座は運転しながらつぶやいた。
「そうだね。心配になることもあるよ」
「何を心配するんだ?」
「葛藤がない感じがするから」
「それは早計だろう、タバコを吸っても?」
「女性陣が嫌でないのなら」
博座はそれを後部座席の二人に聞くことなく、タバコに火をつけた。
示し合わせたように、汽冬も窓を開け、タバコに火をつけた。道綾も窓を開けたが、タバコを手に持つことはなかった。
道綾が口ずさむメロディは、大陸のポップスだった。俺はその歌をよく知っていた。車内を通る風はタバコの煙を外に運び、微かな雨の気配を俺たちに感じさせた。
「博座、携帯灰皿持ってる?」
汽冬が聞いた。
「陽成、扉の袖にあったと思う」
俺は携帯灰皿を汽冬に渡した。
山の斜面をスピードをつけて走らせる。ゆっくり行きたいところだが、後続の車と対向車線の車に配慮すると、かなり荒っぽくハンドルを切らなくてはならない。
博座は慣れたものだと平静を保つが、助手席から見える崖ギリギリのガードレールに、恐怖を感じないわけにはいかなかった。
海が見える。夜城楼のランタンに明かりが灯る。
夕焼けの中に夜城楼がふわりと浮いた。
観光客を乗せたバスが、何本も何本も下ってくる。
「ここだっけ?」
「そう。その路地を曲がって」
タバコの火を灰受けに入れて消すと、慎重に路地に車を入れた。
夜城楼のランタンが灯る地区の少し上がったところ。
降りると雨がポツポツと降ってきた。
「傘、持ってるか?」
「折りたたみを一つ」
俺は答えた。
「用意がいいね」
道綾と汽冬は持っていなかった。
博座はトランクを漁ると、一つ長傘を取り出した。
「タバコの臭いがするかもしれない」
「私は構わないけど」
汽冬は言った。
博座が長傘を開くと、汽冬がその中に収まった。
小さな折りたたみ傘の中には、道綾と俺が入った。
下の方ではお祭りのように騒がしい人の声がする。
どこへ向かうのかと思ったら、汽冬が道を指差した。
神社のような広い構えの家。屋根付きの門の下に、男の子が一人立っている。
「汽冬姉、いらっしゃい。皆様もようこそ」
門の明かりが点灯する。足元を光が這う。
「汽冬、ここは?」
俺は聞いた。
「実家。レストランやってんの」
傘を仕舞い店に入る。賑やかな店内。清潔な装飾。個室に通される。
料理人も顔を出して、汽冬を歓待する。
最初の男の子に四千元と百元を渡して、汽冬は言った。
「おまかせ。百元は君のだよ」
男の子は嬉しそうに厨房に駆けていった。




