四十六章《道綾》
「制約の言語回路」四十六章《道綾》
本屋の雰囲気は最高だった。
光量は本が見やすいように絶妙に調整されていて、明るすぎることがない。故南の繁体字の本だけと思いきや、大陸の簡体字本、日本語の書籍、洋書まであった。
気づいたら道綾は隣におらず、島国の雑誌コーナーで立ち止まっていた。
ファッション誌とか読むのな。意外だったが、それをそのまま口にすると、要らぬ口論を招きそうだから言わなかった。
道綾が本屋の中で、細い指を本の背に這わすのは、色っぽいというより美的な光景だった。道綾の呼吸を感じる。ほとんど音のしない風景の中に風がある。熱の流れがあり、光の通り道がある。
適当にまとめられたように見える髪はなだらかにうねっていた。
「ごめんごめん。ファッション誌、好きなんだよ、何か?」
「いや、道綾はこの書店にある日本語の書籍のどれを俺に薦めるのかなって」
「本は洋書に限るよ」
「それは絶句」
「冗談。にこっ。そぉね、私は吉川幸次郎。成山にはあるんだなー、島国でもメジャーとは言えないけど」
「誰?」
「知らないの?」
「知らない」
「まあ、後で読んでみて」
そう言うと道綾は本を本棚から抜き出して俺に手渡した。中国文学。『詩経』の文字。
日本の中国文学研究の隆盛を、緻里先生から伝え聞いていたから、ハッとする以上に、涙が出てきそうになった。
故南の儒学研究は、書店で日本の京都の研究者の本を紹介する。それは、凄まじいことだ。
「道綾はどうして中国文学をやるんだ?」
「そんなの、わかんない?」
「見当もつかない」
「島国が嫌いだからだよ」
言葉がこぼれてなくなった。甕の水を無駄にしたような罪悪感に心が乗っ取られる。
「動脈硬化した社会は嫌い。それだけ。あの国にもう文学はないから。そして、文学がない社会に意味はないから」
「そんな単純化された図式なのか?」
「私は、孤独になりたくないの。温かい家族と、親切な仲間と、愛しい人と一緒に暮らしていたい」
「どこもかしこもだな」
「わかってるよ、わかってる。そんな優しい世界なんてないっていうんでしょ? 嫌だなあ、嫌だ」
「道綾は救いを神に求めるべきじゃないか?」
「哲学に鞍替えしろってこと?」
「は、は、は。そういうこと。よく伝わるな」
「思考の形式にもっとこだわるべきってことよね。あるいは、言葉の歴史を噛み締めるべきだと。言葉を媒介して世界を把握するのだから、思考の身体としての言語に少しでも変革を、って、ごめん。早口で話しすぎた」
「いや、そういう質的な変更じゃなくて、積み重なる時間が徐々に染みていくような、思考の変遷を各所で微分すると、方向が緩やかに変わる領域が、やがて著しい屈折点をもたらす……」
「そんなに早口で言わないでよ」
「ごめん」
第一学府に入るのだ。道綾は哲学に長けている。俺が提示できることなんか、すでに押さえているだろう。
「哲学って優しさよね」
「俺もそう思う」
「敢えて言うまでもないか。でも、答えがないのに私のスタンスに意を唱えるのだから、あなたは違う神様を信じているってことよね?」
「道綾は家族が嫌いか?」
「ええ」
「でも、人を好きになることはある」
「人は千差万別だから」
「日本にだって……」
「日本って言うな! 日本なんかもうないんだ! 失って失って失って、奪って奪って奪って。あなたの国と命を賭けて戦っているんだ。私は、悔しいことに同胞が死ぬよりも、君の国の人に恨まれることがずっと怖いんだ。無関心と無感動で包まれたまま殺す私と、私の同胞に、私は嫌気がさしてしまうんだ」
「空を飛ぶだけじゃない」
「そう。私の風は、血のにおいを運ぶためにあるわけじゃないのに」
その時、道綾は俺よりずっと背が小さいように感じられた。下から俺の顔を見つめる。
いじらしい女の子。よく見ると化粧をしていて、それはとても自然だった。そんなどうでもいいことが、今、一番重要なように思えた。
無関心と冷酷のままに、道綾は人を屠ってきた。そういうことが前提として了解されると、事実がどうであれ道綾が国から国へ宗旨替えするのもわかる気がした。
そんな中で俺は、戦争の最中にあっても、大陸と島国に伏流する深いつながりを感じる。それは道綾や俺の存在だけではない。故南に残る文物、緻里先生・街月先生。戦争によって海の水は干上がり、大陸棚が続いて、大陸と島国は大きな一つの関係の中にあることがわかる。
こういうのが大陸的なフレームワークだと知るのは、少し後のことだったが。
目の前の道綾と対峙すると、俺と道綾は削ぎ落とされた個人としてではあり得ず、複雑に走る文脈を、トンネルのように奥と手前から結びつけようとしている。
好悪ではなく、何かを背負って、責任が生じている関係。
道綾の大陸語と、俺の日本語が、それを物語っているように思いたかった。
「大陸の本は?」
「王澍『家をつくる』」
「へえ、聞いたことない」
「大陸の建築関連書棚には必ずある。それ」
「これ。古典ね。ありがとう。読む。読むよ。こういうの好きなの?」
「建築は、音楽だから。ある程度までは勢いで、でもその背後では徹頭徹尾計算がなされている」
「私もその意見に同意する。今日はありがとう。夜遅くなっちゃったね。君のいいところは、粗野なのにガツガツしていないところ。淡白ではないところ。かわいいぞ」
「道綾も十分可愛い」
「ふ、笑わせないで」
「言葉だけだ」
「ありがたく受け取るけど、コーヒーくらい添えて」
「明日研究室の冷蔵庫に入れておく」
「高くなくてもいい。付箋貼っておいて」
***
地下鉄のくすくす笑い。
中高生が二人組を作って世界を閉鎖するのに、羨ましさを感じる。かつては月書と俺の周りの大人も、ある種のそういうノスタルジーを、俺たちから引き出していたのだろうか。
月書は俺にとって秘密を共有する相手であったことは間違いない。秘密というか、親に話せないことを、気にもせず話していた。
異国、それがたとえ故南で、言語を共有していたとしても、そこで交わされている声はやはり新鮮で、でも砂時計の砂みたいに儚く聞こえた。
地下鉄を降りる。地上に出ると、今度は月が笑っていた。月下の国道はテールランプが彗星のように尾を引いて、エンジンの音を立てながら人を運んでいた。
俺は漢詩、張継の「楓橋夜泊」を思い出した。そらんじれるわけではないけれど、第四で、先生が歌ってくれたことはよく覚えている。船の中で眠るのだ。
朝吹真理子の『流跡』にも、人を運ぶ船渡しの風景が描かれていた。
車が人を運ぶための乗り物だっていうことを、俺はすっかり忘れていた。
月の下で人は明かりを取り、こちらからあちらへ移動する。
こちらにないものはあちらにあり、移動することでこちらは俺から遠ざかる。当たり前だ。
路傍で突っ立っているとホームレスに話しかけられた。
俺は実に珍しいことにそのホームレスに同情した。正確なことはわからない。でも、そのしゃがれた故南訛りを解さないままに、幾らかの紙幣を渡した。
俺はそのホームレスに、どこかに行ってほしいとも、彼を哀れだとも思わなかった。
そこには立場はあったかもしれないが、理由はなかった。正しくは理由がないというより論理が介在していなかった。正の因果は無視されるがゆえに、強固に負の因果が隆起する。
空を飛んでいる道綾が泣いているのかと思ったら、亜熱帯の故南の空を雲が覆い、雨が降って、さあさあと風になびいていた。
街路樹は枝葉が揺さぶられ、トトトトと雨を受ける。
傘がなくても嫌にならない、爽爽とした暖かさに包まれて、寮まで戻ると、月書のことを思い出しはしなかった。




