四十五章《嘘》
「制約の言語回路」四十五章《嘘》
日系の百貨店の十階にあるレストランで、俺はもう十年ぶりくらいに和食を食べた。
刺身を食べる時は口が震えたが、嚥下する時にはうまさで震えていた。
日本茶は苦く熱く、漬物の塩気冷たさと好対照だった。
白米は特徴的な粘り気が唾液にからんで後から甘くなった。
「米は冷玲産らしいね。私の故郷は米どころ〜」
「はは、なんだそれ」
「雪が降る。しんしんとね。その水が米を作るのだよ」
道綾の箸はゆっくりゆっくり動いた。一口一口が小さく、俺が食べ終わった時、まだ半分も食べ終わっていなかった。
道綾はカキフライを追加で注文した。俺が首を傾げると、「君のだよ」と言った。
冷たいタルタルソースの刻まれた玉ねぎがとても辛くて、口の中が唾液にあふれた。
俺は飲み物のメニューから葡萄ジュースを選んだ。道綾はジュースを飲まない代わりにあんみつを頼んだ。お茶ととても相性が良さげだ。
食事を終えると、道綾はカードを出した。
「今日はこれで払うから。また今度おごって」
「それは悪い」
「悪いなんてことないよ。また一緒にご飯食べてね」
道綾は親切に駅まで送ってくれた。それは男のやることな気がしたが、あえてそれを言うのは無粋だろう。ステレオタイプは嫌われる。
「寮に住んでいるんじゃないのか?」
「それは秘密。また研究室でね。今度は故南の子とも一緒に。そちらの方が楽しいと思うよ。じゃ」
「じゃ」
風が通り抜けた。俺は直観した。道綾は風の使い手なのだということを。
***
学期が始まり、俺はちょっとしたレクリエーションに参加した。留学生が集まり、簡単な催しをする。
国際交流会館には少なくない日本人が集まっていた。道綾もいて、俺に遠くから目配せをした。笑顔で返す。
逆に、大陸からの留学生はそれほど多くなく、アナウンスは大陸語でされるものの、支配的な言語は日本語だった。
「大陸語上手いね」
「大陸人だからね」
驚かれる。
「首都?」
「そうだよ」
「行ってみたいな、どんなところ?」
「寒くて、女までも冷たくなっているところ。日本とは違う」
「日本じゃないぜ。島国だ」
日本人は笑った。
「それでも俺は、日本と呼ぶことにしている」
「今どき国粋主義者でも言わないんじゃないかな」
戦争をしている相手国の人に話す感じじゃなかった。日本人には、戦争をしている感覚がないのだろうか。
それは、大陸も同じかもしれない。
食堂に会場を移すと、ビュッフェ形式の料理が揃えられていて、南国の香辛料が香り高く漂っていた。大陸ではあまり見ない果物を食むと、甘さと風味にくらくらする。
カツやカレーがあり、日本人はほとんどそれに手をつけなかったが、俺はガツガツとかき込んだ。
カツカレーにするのを、故南人は親切に教えてくれた。
「カツカレー?」
「そう。ジャパニーズ・ソウルフード。カツカレー」
日本人は首と手を振って否定するが、その完成度はこの世のものと思われない。
「カツカレー」
俺は立ちすくんだ。
「まあ、福神漬けさえ忘れなければなんでもいいよ」
日本人の口から福神漬けという言葉が出てきたが、残念ながら俺の語彙にその単語はなかった。
「ふくじんづけ?」
「漬物。箸休め」
「使ってるのはスプーンだがな」
俺の周りでカレー談義の華が咲く。
「陽成、人気者ね」
道綾はどら焼きを片手に持ちながら、もうご馳走様の用意。
近づくと畳の香りがする。
湿気を帯びた故南の風は、道綾を中心に渦を巻く。
「そんなに見つめないでよ」
「見つめてなんかいない。ただ眺めていただけだ」
周りが沸いた。はやし声がする。まだ青年にさしかかったくらいの、単純な面子の、ノリと勢い。
ガラガラと配膳台が運ばれて、温かいお茶が出た。終了の合図。三杯ほど飲んで留学生寮に帰る。
突発的にできたクラスターは、部屋で宴会をするらしい。誘われたが行く気にはならなかった。
ふと周りを見渡して、道綾を探してしまった。見当たらなくてホッとしていると、指で背中をなぞられた。
「探してくれた?」
「ああ、探していた」
「嬉しいな。陽成、素直なのはいいこと。本屋にでも行かない?」
「本屋?」
「うん。成山駅の本屋。私そこが好きでね」
「高校時代みたいだ」
「そういう相手いたんだ。まあ、陽成はかっこいいもんね」
「そんなことない。いつもなんて言われるかビクビクしてた」
「今は?」
「同じではない。少し違う」
それは質問に対する応答として、無意識に口に上った返事だったが、耳にすると少しだけ違和感があり、そう応答した自分に俺はかなり驚いていた。「何が違うのかはわからないけど」
道綾は俺の言葉の意味不明瞭な点を、受け止めてくれたみたいだった。
「陽成、嘘はよくないよ」
「嘘?」
「逆なのよね、たぶん。大陸の同級生に陽成がビクビクするとは思えない。それに、あなたは今、私を恐れている。そうでしょ?」
言葉が出てこない。道綾の言う通り、月書にビクビクしていたことはない。一つずつ項をずらして、俺は今の不確実な気持ちを整理しようとしていた。嘘をついていると、言われてみなければわからないほど板についた欺瞞に気づかされて、……赤くなるならまだ良かったのかもしれない。
俺はその時初めて、(日本の、ではなく)島国の女の美しく雅な洞察を「発見」した。
「嘘、つかないでよね」
「ああ」
嘘を看破することができるのだから、同じくらいの精度で嘘をつくことができる、はず。
「もう少し、緻里先生に島国の女のこと聞いておけばよかったな」
「耳学問より、実地でね」
指揮するように指で俺を嗜める。煽情的な言葉遣いだと、道綾は知った上で言っているのだろう。つやのある声は、俺の心臓を縛る。体がうずく。
「でも、背伸びしたかったんだよね?」
「トドメを刺さないでくれよ」
「柔らかい肉がのぞいているから」
「隠していたんだ。ずっとずっと」
道綾が突然路地を曲がった。追いかけると道綾が見えない。ポッカリと空いた穴に入り込んだみたいに、路地は行き止まりだった。
背中を撫でる風が、つむじを巻いて俺を取り囲んだ。体がふわりと浮く。風。
「ようこそ、故南へ。私は歓迎するよ。たとえあなたが敵国の王子様だとしてもね」
久しぶりにヴァイオリンが弾きたくなった。楽しい。そういえば月書も魔女だった。
「他の女のこと考えてる」
「とんでもない」
「嘘が下手」
「嘘じゃない」
「なによもう、落としちゃうよ」
「すみません、ちょっと高校の同級生のことを思い出しましていました」
「あー、やっぱ落としちゃおうかなぁ」
「彼女面すんなよな」
「やっぱそう思う? ごめんごめん。冗談だよ」
そう言われると逆に胸が締めつけられる。好きなんて単純な感情じゃない。吊り橋効果と言われたら、そんな気もする。知らんけど。
「遠くに龍がいるね」
「龍?」
「見たことない?」
「あるわけない。何かの比喩か?」
「あれは、夜城楼の方かなぁ」
夜城楼。遠くで金色に光る街。
道綾の結ばれた長い髪は煙のようにたなびいていた。




