四十四章《敬語》
「制約の言語回路」四十四章《敬語》
「兄さん、どこの大学に留学するんだ?」
「師範大学」
「故南大学じゃないんだ」
看板娘は言った。俺は曖昧に笑った。うまく説明できる気がしないし、差別じゃないけど、看板娘がうまく理解するとも思わなかった。やはり彼女は「知らんけど」と付け加えた。
看板娘はせわしなく動き、男たちに指示を出していた。大陸にありがちな使えない男と有能な女の構造は、ここでも無事に適用されているようだった。
「小姐、何て名前なんだ?」
「九情。兄さんは?」
「陽成」
「かっこいいね」
男が九情に文句を言った。はいはいはいはいとあしらって、九情は仕事に戻った。
「お腹いっぱいだよ」
「お腹いっぱい〜。お腹いっぱい〜」
鼻歌を歌うように言葉を繰り返した。
お会計をするともう俺のことは忘れたように、九情小姐は仕事に戻った。
帰り際に日本語で「美味しかった」と言うと、九情小姐は「また来て」と笑った。
夜、ベッドの中で九情小姐のことを思い返した。大きな声と虚飾のない(ように見える)ストレートな言葉。真ん中で分けて後ろで束ねた髪は、あまり手入れされていないようにも見受けられた。
年上だったのだろうか。
月書の整頓された振る舞いと比べると、九情小姐は少し粗野で、でも粗野だからこそ頼られ好かれ求められるのだろう。
仕事着にしていた紺色のジャンパーが、彼女を女性性から遠ざけ、かっこよく、魅力的なものに仕立て上げていた。
女性性から遠ざかっていたことが、彼女を美しい女性に見せたことも、付言しておく必要があるのだけれど。
***
師範大学の美しい図書館には、山ほどの日本語文献があった。取るものもとりあえず図書館に行き、何冊か借りて留学生寮で読み耽る。
食事の時間になり、食堂に行くと、日本語が聞こえてきた。小さい頃に行った日本の雰囲気と、100%一致するわけではないが、やはり泣きそうになる。
黒糖タピオカミルクティーを飲む。角煮丼をかき込む。
担当教官は街月先生。先生のご専門は儒学だった。
江戸の儒学者の荻生徂徠は緻里先生に教わって、少し勉強していたから、先生と話す時はそれをネタにした。大陸と違って故南は儒学を学ぶ人は多い。俺は平均的大陸人と同様、儒学にそこまで興味がないから、大陸が儒学の本場と言われるとどうしても首を傾げてしまう。
「先生は日本に行かれたことがあるんですか?」
「ああ、ある。向こうの西都大学で博士課程を過ごした」
「いいものですか?」
「良さを言葉に表すことはできない」
街月先生はこちらを見なかった。「陽成くんは、雰囲気と違って繊細な一面を持っているんだな」
「俺のどこを見てそう感じました?」
「言葉遣い。人を値踏みしない姿勢は敬意に値する。学生は傲慢なものだ。教授であろうと同い年の恋人の権威には敵わない」
教授のリップサービスに、俺はくつくつと笑った。「久しぶりに北城方言を聞いたな。昔は故南の新南人は皆、北城方言を話していた。私は旧南出身だから、羨ましかったものさ。君みたいにかっこよく話したいと思ったものだよ」
「とんでもないです」
俺は日本語でそう返事した。
「君は大陸でいい先生に教えてもらったみたいだ。ここは、『島国』というより『日本』の研究なら、世界で二番目にいい環境だと思う。留学を成功に導けるよう私も努力する」
ノックの音がして、学生が入ってきた。
「こんにちは」
日本語だった。俺は軽くうなずいた。
「留学生の陽成くん」
「『ようせい』?くん?」
「いえ、俺はいつも『ようぜい』と呼ばれています」
「陽成くん、ようぜい君だね。承知だよ。私は道綾。島国からの留学生。とは言っても、大陸研究のために来たんだけどね」
「みちあやさん。どうぞよろしくお願いします」
俺は自分の日本語が実にたどたどしいことを初めて自覚した。
道綾さんは何も言わずにポットからお湯を配り、茶を淹れた。
「大陸の人なんだよね。いろいろ聞かせて」
お茶菓子を引き出しから出し、ぽんと俺の前に置いた。
台湾烏龍茶の芳醇な香りが立ち上る。かすかに音を立てて茶器を用意し、道綾さんは茶を注いだ。
席に着くと、道綾さんはポニーテイルにしていた髪をほどいて、手櫛で下ろした。
小さな耳に髪をかける。茶で唇を濡らし、ぺろりと舌で舐める。手で口元を隠しながら菓子を食むのは、かなり衝撃的だった。
人差し指につけている指輪に目が行った。その後で、指が背の高さに比して驚くほど小さいことに気づいた。
ブーツに丈の短いスカートを履いていて、上は丈の長いパーカー。年はわからなかったが、服装からそんなに違わないだろうと思った。
「道綾さんは、どちらのご出身なんですか?」
「島国の北の方。冷玲」
「れいれい」
「聞いたことないでしょ」
「恥ずかしながら」
「陽成くんは、北城市?」
「恥ずかしながら」
「戦争がなければ、城市大に行きたかったな」
「道綾さんは第一学府ですか?」
「そうだよ、恥ずかしながら、ね」
「初めて第一学府の人に会いました」
「ギリギリ合格だけどね」
「入ってしまえば皆一緒さ」
街月先生がぼそっと言った。
「お茶、おかわりする?」
俺がわずかにうなずくと、道綾さんは俺の器に茶を注いだ。
「おいしい?」
「とても」
「やっぱり大陸のお茶とは違うのかしら」
「故南のお茶と北城市で飲まれているお茶は、かなり違うと思います」
「陽成くんは味の違いがわかるんだ」
俺は自信なく曖昧に紛らわした。道綾さんはくすっと笑った。骸骨が透けて見えるくらい透明な肌。潤いのあるリップが浮き上がっている。
道綾さんは本のページを繰りながら、たまにちらっと俺を見た。
自分だけにわかるように小刻みにうなずき、小さな声を漏らした。
街月先生はいつの間にか退出され、部屋には俺と道綾さんが残っていた。
「おいしいもの食べ行かない?」
「行きます」
「敬語はやめてよ。そんなに歳変わんないでしょ?」
「ああ」
「道綾でいい」
「じゃあ俺も陽成で」
道綾はくすくすと笑った。
「何が面白い?」
「何が面白いとか、そういうとこ。いい声してる。本気で語学やってる人だよね。そうじゃないと、そういう声出ないよ」
「ああ」
俺は素面でいるようにと、道綾に酔わされないようにと思い、襟を整えた。
「何食べたい?」
「おすすめは?」
「そうね、和食にする?」
「ああ」
大学を出ると通りでタクシーをつかまえた。端的な大陸語で行き先を告げる。道綾はそつがなさすぎて、可愛いけどモテないだろうところが半周回って好感が持てる。日本でこういうタイプがモテるなんて聞いたことがない。大陸ではどうだろう。
「ん? なんか失礼なこと考えているでしょ?」
「滅相もない」
「まあいいけど」
道綾の髪がはらりとかけていた耳から落ちる。
「日本からか?」
タクシーの運転手は大陸語で俺たちに聞いた。
「ええ、彼は大陸から。私は日本から」
「兄さんの日本語も、綺麗に日本語になってるかい?」
「ええ、とびきり上手」
「姉さんの大陸語も、とびきりだね。師範大学か」
「そうよ」
「彼氏かい?」
道綾は間を作ってにまりと笑い、考える風をして背を座席に預け、返事しなかった。
おやおやと運転手は釣られて笑った。
俺は咳払いして、間を潰した。
「彼氏ではない」
タクシーの運転手はびっくりしていた。俺が話す日本語からは、大陸語の発音がかけ離れていたからだろう。北城方言というのは力を持っている。
「道綾、曖昧なのは君に対して失礼だから」
「そう。含みを持たせるたのは悪かったかもね」
道綾の大陸語も、堂に入っている。
「彼氏じゃない男が相手なんだから、もっと適当でもいいだろ?」
「サービス料金は含まれているから」
「サービス料金? そういうのは真に優しいとは言わんと思うが」
「優しさが標準装備なの。他意はないから、勘違いしないでよ」
「最初からそう言えよ。後出しはずるいだろ」
「それはそうだけ、ど」
「仲良いな」
俺たちはもしかしたら恋人同士に見えるのかもしれない。タクシーの運転手はつぶやいていた。




