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制約の言語回路  作者: 府雨
北城市篇
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四十三章《日本語》

「制約の言語回路」四十三章《日本語》


 府外に入ると俺は、高校が第四だったことを頑なに隠すことにした。勘繰られるのが嫌だったし、うまく説明できなかったから。


 府外には第四や第二の生徒はほとんどおらず、数字もつかない一般的に無名の高校から進学してくる学生ばかりだった。第九の学生はヒーロー(あるいはヒロイン)。


 島国との戦争中に、島国の言葉を習おうとする学生はほとんどいなかった。


***


 緻里先生は、島国の人だった。


 三十になったばかりと言っていた。


 先生と話すと、その大陸語の正確な運用にいつも驚かされる。


「陽成くん、第四-di si-でしょ」


 緻里先生は俺の回答を待たずして、なぜか確信されたみたいだった。


「先生は?」


「昔、第二にいたことがあるよ」


 そうなんだ。高校で留学されていたのか。


「文学を教えることはできない。僕より文学を好きな人に何人も会ってきたから。だから、文学は教えない」


 先生はいつもキザで、魅力的だった。


 雨の話をよくするから、島国が雨降る国だということを感じ取る。北城市はあまり雨が降らないから、先生がいた第一都市が帯びた湿り気に思いを馳せると、なんとなくロマンがある。


 文学を教えないと言いながら、先生は文学的背景を持った思想を題材に、俺に言葉を授けてくれた。


 福田恒存、吉田健一、西田幾多郎、荻生徂徠、夢野久作、平野啓一郎、川上弘美、村上春樹。


 いくつかの偉大な「日本」の作家たちの本を、何冊も何冊も読んだ。


 音読することを繰り返し、文語的な脳を構築した。


 俺が授業を受ける時は、冒頭にいつも一曲聞かせてくれた。大陸音楽ではなく、島国のポップス。俺はそれに夢中になった。


 先生の選曲は若くて洒落ていた。古い曲も知っていて、お父様から聞いたのだと補足があった。


 島国言語研究室には、大学院生が二人、上回の学部生が一人。教授の他に緻里先生がいて、俺を含めて六人所帯で細々とやっていた。


***


 北府外語大(府外)は、石と水と林のキャンパスが有名で、至る所に石のオブジェがある。湖の中島にカフェがあり、講義棟は林で全貌を見ることができなかった。


 風がそよぐと、葉がこすれ、さわさわと音を鳴らす。


 外国語を学ぶから、キャンパスでは文章を暗記するために音読する学生がたくさんいる。


 学生同士で会話形式の練習をする。


 俺は朝吹真理子の『流跡』を研究室の図書室から引っ張ってきて、ひたすらぶつぶつ唱えていた。


 金絵かなえ教授に勧められた乙川優三郎の『脊梁山脈』も夢中になって読んだ。


 大陸の人間が、島国の文化に触れると、驚くことが二つある。


 一つは、島国の人々が、驚くべき次元で疎外を感じているということ。単純な人間関係を結ぶくらいなら、孤独でいることを選ぶ。そして、卓越した人間でなければ、孤独を解消することができないのだ。


 もう一つは、島国の人々は自分でもそれと気づかずに嘘をついてしまう。会いたい時に会いたいとは言わない。決して自分からは言い出せない。


 そのことに憧れているのだと緻里先生に言った。


「恋のあり方は文化によって違うよね」


 先生は島国の言葉で返事をしてくれた。


「恋ですか?」


「近いところにいると人のアラが見えるから。だから遠ざけるんじゃない?」


 先生はくつくつと笑った。


「何故なんでしょう。なぜ、感情表現がストレートではいけないのでしょう?」


「わからない」


 先生は俺に笑いかけた。「本当にわからないんだ」


「資格がないからでしょうか」


「そうかもしれない。男に許された唯一の自由は、孤独になることだけだから」


 こういうせりふを真面目に言う先生の精神年齢は案外幼いのかもしれない。「男に許された」という単語選択は、もしかしたら女性に向けて何回か言ったことがあるのかもしれないと俺に思わせた。


「でも先生、真っ直ぐに言う資格がないのだとしたら、いつその資格を得ることができるのでしょう?」


 緻里先生は少し悲しい顔をした。


「選ばれることを待っているうちは、何かを得ることはできないんだろうね」


***


 島国が日本だった時から、ずっと交流がある故南と呼ばれる、大陸の南にある島。故南は大陸とは独立した国家であり、多くの故南人が島国の言語を学んでいた。


 島国に留学することは難しくても、故南に行くことは比較的簡単だった。


 だから俺は故南の、師範大学に留学することにした。


 もしかしたら何かから逃げているとか、そういうことなのかもしれない。


 もしかしたら何の意味もないことなのかもしれない。


 でも緻里先生ならきっと「何年も先のことを見据えて」と言うだろう。


 それに俺は何よりも、月書以上のものを世界から見出さなくてはならない。故南が大陸よりよほど小さくても、島国への渇望が、鮮やかで意義深い、質の異なる体験をもたらすことを、俺は確信していた。


 一年間徹底的に島国の言葉を学び、島国文学を読み耽り、故南への留学に備えた。


 北城市の発音と、故南の新南の発音はずいぶん昔に分かれたきりで、なかなか意思疎通が難しいと聞く。


 繁体字を学ぶのは馬鹿らしくもあったが、それで損するのはこちらだから、繁体字も勉強した。


 大陸、それも首都中心部で生活していたから、故南のことを侮っていた。知識としての故南は地理的な位置関係と最低限の情報しかなく、故南文学というものがあるということも完全に失念していた。


 だから、故南が主目的になることはないと、俺は思い込んでいた。


***


 故南の新南空港に降りた。湿度の高い空気を吸うと、懐かしさが込み上げてきた。島国に降りたのではないのだ。俺は、故南に来たのだ。


 繁体字に目をしばたく。ところどころに島国の言葉が書いてある。


 これは何なのだろう。これは何なのだろう。見れば亜熱帯の植物たちが柱のように高くしっかりとそびえたっている。


 風が頬を拭った。これは、何なのだろう。


 資本の行き届かない景色に、俺は強く惹かれた。


 大陸にももちろんそういう場所はある。そういう場所しかないと言ってもいい。でも故南の郊外は、島国のように文明で脚色されて、みじめにもなれない孤独さとも、文明が行き届かないがゆえにみじめな思いすらしたことがない大陸の貧困とも違っていた。


 ターミナルは天井が高かった。そこからホテルに向かう。島国の声がそこここで聞こえた。


 爪弾きにされたような気がした。


 そこは大陸の言葉を使う空間で、でもそれなのに島国の文化圏だった。


 島国の人なら撫でられたような安心感を覚えるだろう。でも俺は違った。仲間外れにされた気がした。


 大陸語を話したくなかった。北城方言を使いたくなかった。道を聞きたい瞬間もあった。でも故南人に聞くのは嫌だった。


 旧市街地を旧南という。旧南のホテルにチェックインする。しばらくムッとしていたが、やがて何で自分がムッとしているのかわからなくなった。旅行に来たわけではないのだ。故南に学びに来たのだ。


 バッと部屋を飛び出すと、旧南のレストラン街まで歩いた。コンビニで鉄観音茶を買った。好喝おいしかった


「一人?」


 入った店のお姉さんは、ほとんど化粧をしていなかった。鼻筋がスッと通っている。小さな口元が少し歪んでいて、大陸の看板娘と一緒だった。羽織っているのはジャンパー。背が高くて、声が大きくて、言っていることは何一つ聞き取れなかった。


「一人」


「ビールは?」


「要らない。故南の烏龍茶があれば」


「観光?」


「いや、留学」


「どこから? 日本?」


「大陸」


「大陸のどこ?」


「北城市」


「なんだ、シティボーイか」


「旧南が都会ではないとは思わないけど」


「注文決まった?」


「なんて読むのかわからない。これとこれ」


「承った。ちょっと待ってて。これ烏龍茶」


 トントンかちゃかちゃと食器が運ばれる。


 食事はすぐに出てきた。温かくてとてもおいしい。北城市のあの儀式めいた食事より何倍も開放的だった。


 後から知ったことだが、故南の人は皆、島国のことを日本と呼ぶ。それがなんとなく羨ましくて、俺はそれから島国のことを日本と呼び、島国の言葉を日本語と言うことにした。

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