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四十二章《理由》

「制約の言語回路」四十二章《理由》


「月書は、不安になることはないのか?」


「不安? なにそれ」


「悪かった。聞く相手を間違えた」


 俺は、でも改めて考えると、聞いた相手は間違えても、質問の内容は間違えていないと思った。それを、天秋や夜地に聞くのはあまり意味がないと思ったのだ。


「陽成は、孤独を感じることはある?」


 逆に返された。


「そりゃあるよ」


「あなたは複雑だものね。誰かにわかられたことがないんじゃない?」


「それは、月書だってそうだろ?」


「私には、あなたがいるから」


 さも当たり前のように言って、月書は笑った。「私にはない直感を、あなたは持っているから。私は、孤独ではないわ」


「俺が何かを月書にしたことないぜ」


「ご謙遜。わからないのならいいわ。ここにコーヒーがあって、そこに僅かにミルクを垂らす。ほとんどの人はそれに気づかない。でも、ミルクを垂らしたと言うと、逆にほとんどの人がそれを感覚する。気づかないのがあなたで、逆に多くの示唆を得て、私はミルクのことを感覚するの」


「つまり?」


「示唆する人はこう言えばいいだけ。『いつもとなんか違う気がする』って。それでその人が気づいていなくても、私は全てを理解する。理解することは労力を要するし、私は不幸なんだと思う。孤独はむしろ幸福の範疇に入るんじゃない? 他者を理解しなくていいんだから」


 実に楽しそうに話すなぁと、俺は少し嘆息した。同世代の一位が、こんな素朴なことを考えているなんて誰も思わないだろう。


 俺たちの話は、とても細い論理の線であやとりをするようなもので、どこかで切れはしないかと、俺はいつも心配していた。


 月書はでも、聡明で思いやりにあふれているから、俺が少し間違ったことを言っても、解釈し損ねることがなかった。


 矛盾に満ちた俺の言語回路が、少しだけ整理される。複雑だった意味と言葉の対応関係が断ち切られ、独立に成立すると示唆される。


「全てを言葉で表さなくてもいいんじゃない? 私はそうは思わないけど、そういう派閥の人が、私の隣にいるのは嬉しいわ」


「他者に寛容なんだな」


「他者に寛容じゃない人は、人間じゃないわ。人に優しいのは人間の条件よ」


「優しさは冷たさとも言い換えられる」


「それ、島国流でしょ」


「へ?」


「普通の大陸の男の子は優しさを温かさだと思ってる。優しさが冷たさの裏返しなんて、うちの界隈で聞いたことないわ。そういうの、私は好きよ」


 聞いたことないわ、とか、私は好きよ、とか、月書の語調は古めかしい。昔の島国のラノベを漁っているくらいだから、そういうところから借りてきた表現なのかもしれない。


 島国流。確かにそうかもしれない。大きなストーリーの流れよりも、心情の機微、背理的な表現が気になるのは、民族性か。


「つまり陽成は非国民ってことだよな」


「否定できない」


 夜地はその応答が面白かったみたいだ。くすくすと笑っている。非国民。そういう単語が脱色されて使われる場合にも、排外性は常に考慮しなくてはならないが、もちろん天秋は文字通りの意味で用いているわけではなかった。


***


 二十四時間開館している図書館で、四人集まって、休みの日は一日中勉強していた。


 成績の上は月書が押さえているから、どれだけ頑張っても頑張りすぎということはない。


 夜食べる包子が温かくて、涙しそうになる。と思ったら天秋が泣いていた。


 大学受験に押しつぶされそうになるのは、第四の生徒と言えど避けられるものじゃない。


 誰も「大丈夫だよ」なんて言わない。そっぽを向いている。


 恩寵は前もって知らされない。だから頑張るのだ。そして、頑張ることこそが恩寵なのだと知る。


 コンビニでみんなの分の飲み物を買って、また図書館に戻る。外は少し寒くなっていた。月が丸く大きくて、見守られているのかと思った。


 北城市に雪が降る。クラクションが鳴る音が遠くまで響く。全てが自分の元から離れていく。空間が広がり、自分が矮小化された。

 後からだったら「受験なんて余裕だったよ」と笑える。「第四だったんだろ?」って言われたら、俺はなんで返すんだろう。


 夜空が高く見えて、寒さが手先を透明にする時が、自分が本当に恋をした時で、そんな中で例えば、月書に思い人がいると知ることがあったとしたら、生肉の色をした自分の内側を覗くような思いをするだろう。


 夜空を見ても自分の体はない。崇高だと勘違いするには十分だろう。そこには恋の概念だけがある。


 そして月書に思い人がいるのなら、月書との日常が意味を変えてしまうから、恋の概念は後悔であり、夜空に貼り付けられた一つの諦念でもあった。


 都合のいいように考えているから、都合が悪くなると困るということだけだ。


 夜空と崇高が心に刻む意味の深さに反して、現実の感情の層が独立して血の赤い肉体に働きかける。


 崇高の開放感が日常の中に埋没する。そして自分の都合のいいように相手が動いた時の全能感は、その時その時のもので、振り返られることも、思い出されることもない。


 夜空と肉体。


 それらが相互に根ざしているのなら、理解するのは簡単だ。権利と義務のように双方向ならなおのこと。でも実際、接点はない。


 灰色がかった月書の髪が、内に少し巻いている。


 もし「前髪を切ったのに、気づいていないの?」なんて、言われたら、俺は何で返すんだろう。


 想像すると怖くなってくる。月書と俺の間に何があるから、俺たちは勉強するんだろう? 友達だから? 俺、友達って言葉嫌いだからな。


「何もないわ。何もないのよ。それで何か問題がある? 無理やり何か理由を作るなんて、馬鹿みたいじゃない。物事を単純にして理解するために理由を探すのなら、理由で説明できないくらい濃密で複雑な関係の方がよっぽどいい。そうでしょ? 簡単じゃないわ。簡単じゃないの。そうでしょ?」


「おしとやかだな」


「ありがと」


 月書はにこりともしない。


 俺は高校生だから、月書が言ったことを真面目に受け取った。たぶん高校生の時ぐらいしか、そんなことを真面目に言わないだろう。難解で、なおかつ無機質なやり取りも、脳が冴え渡っている今しか成立しない奇跡なんだろう。


 そう思った。


***


 受験の日は珍しく雨が降っていた。


 城市大のキャンパス名前で、四人で待ち合わせた。


 その時俺は、不合格を悟った。


 俺はずっと月書を見ていた。月書が城市大受験に何かを賭していることは、その時までわからなかった。月書の横顔をもしかしたら俺は初めて見たのかもしれなかった。


 ただ俺は、欲するもの(城市大)を欲するもの(月書)を欲していただけで、話にもならなかった。


 すり替えて理解していた。区別するべきだった。他者の欲望に自分の欲望を託すことで、自分自身のものにするべき目標を棚上げしていた。


 受験が終わった後、待ち合わせした場所に、俺は行かなかった。


 雨が土の匂いを運んでくる。悔しいとすら思わない。雲で白んだ空から、細い雨の糸が降りてくる。


 帰りに楽器屋に寄ってヴァイオリンを買った。


「どうだった?」


「全然だめ。俺、才能ないわ。父さんの言ったことがわかったよ」


「そうか」


「府外に行くよ。島国の言葉を学んでみる」


「北府外国語大」


「父さんが行ったとこだろ?」


 父は笑った。


 部屋でヴァイオリンを弾いていると、天秋から電話がかかってきた。俺は取らなかった。


 城市大は滑り、府外に行くことが決まると、凄まじい速度で島国の言葉を学んだ。


 府外では週十二コマ外国語の授業があった。


 緻里先生と会ったのは、大学でのことだった。

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