四十一章《ヴァイオリン》
「制約の言語回路」四十一章
雑然とした島国の第一都市。固有名詞が一般名詞で表されているそこには、「島国」と「日本」の歴史的断絶を垣間見ることができる。
「島国に歴史はない」
もしそう言われたら。
「そしたら大陸にだって歴史はねぇぜ」
俺はそう言うだろう。
「島国の肩を持つのか?」
「ナショナリズムの崩壊した時代に?」
俺は煽り返す。
知日派と呼ばれた昔の「中国」の留学生が、「漢の時代に遡らなければ、私の国の良いところは見つからない」と言った。それは、面白いことだと思う。その人には「日本」に特別の愛着があったのかもしれない。それはそうかもしれない。中国と日本の同時代に、そういう言葉を栞のように挟み込んだその留学生の言ったことが俺にはわかる。
燃え上がるような右翼の高揚感と、先鋭化する左翼の正義感が、その頃はまだ生き延びていたんだと知る。
今、単純化された世界の中で、戦争を行なっているのは、好悪ではなく、金銭でもなく、……何だろう。
ネーションの枠組みが逆にわかりやすいこの世界で、わかりやすさのために人を殺人に駆り立てているのだろうか。
***
「もし、戦争がなかったら、俺は島国に留学していただろうな」
「たわごと。口の筋肉を無駄に動かさないで」
「ひどいな、月書」
「島国のライトノベルには、頭のいい女の子と一緒に勉強するバカな男の子がよく出てくる。嬉しい? そうよね、嬉しいわよね?」
「圧がすごぉぃ」
「いちゃつくなよな」「いちゃつかないで」
天秋と夜地に釘を刺された。
「月書、ラノベなんか読むんだな」
「昔の話」
(今は『人類は衰退しました』を読むのに忙しいの)
(それ、ラノベだよ)
月書はこちらを向かない。参考書を押さえる手が、そろそろ寒くなる秋のセーターの袖に半分入り込んでいる。
美しい漢字が、月書の手から書き落とされる。ノートに降り落ちる黒のインクが、まるで夜天からこぼれた濃密な闇のように、ノートの白地を染める。
月書は隷書体が好きだという。草書のように崩すことはない。筆は迷わず、美しい筆致を高速で完成させる。
「自動筆記みたいだな」
俺はそう口にした。それから二時間口を利いてくれなかった。何がいけなかったんでしょうね。
帰り道も全然、何を言っても返事がない。
「ごめん、ごめんて。なんか悪かったよ。何が悪かったのかわからないのもすみませんね。デリカシーがない男子ですよ」
俺は平身低頭で謝った。
「私は、ロボットではないわ」
「へ?」
「ワープロソフトの明朝体。私のライバルだから。陽成も、私の手紙を受け取った時わかると思う」
その言葉が忘れられない。ロボットではない。正解を反復することが趣味なんじゃないかと思うくらい、細密に指先を操る人が、まるで何かを求めているようだった。
***
部屋から音楽が消えたのは、ちょうど島国の学生が受験を機に漫画やアニメを見ることをやめるようなもので、今思うとどうして自分が音楽をやっていたのかわからない。
だから久々にヴァイオリンを弾くと、音が出る嬉しさに泣きそうになった。
弾くのはいつも楽しい曲で、聴くのはいつも哀しい曲だった。
ベッドに丸まって、なぜか止まらない涙を流し、嗚咽を抑える時に、哀しい音楽が流れていると、とても救われた。
ひとしきり泣いた後は、勉強をした。
父が集めた島国の書籍には、勉強も部活も恋愛もゲームも音楽もスポーツも絵も頑張る学生が少なくないのに驚く。勉強だけじゃない。ラノベにはそう書いてあった。
それは嘘だと思う。だって勉強はこんなにつらいのに、どうして勉強以外のことができるんだ?
どうして、勉強はこんなにつらいのに、勉強以外のことができるんだ?
どうして島国の学生は、楽しいことをやろうとする?
たぶんそれは彼らにしてみれば、教養なのだろう。役に立つことを積み重ねるわけでは、必ずしもないのだ。そして、彼らは教養を心底嫌っているのだ。そうでなければやる意味がわからない。
ヴァイオリンを弾くと孤独を感じることができた。孤独は心の成長のための養分だと、誰かが言っていた。
涙を流す音を、かき消した。
一人称が「俺」だと、涙を流す資格がないかもしれない。
そんなことない。そんなことないのだ。
何かを畏れたり、何かに憤る時に涙が出ないのは、精神の病であり、社会の病だからだ。
ヴァイオリンの音は弾き散らさない。心の形に沿うように、ゆっくりと流す。
「陽成」
父が俺を呼んだ。
「なに?」
「久々に弾いてるな」
「それが?」
「勉強が順調なんだな」
「はァ?」
「最近弾く余裕がなかったんだろう?」
「それ、どういう意味? そんなことやっている暇があったら、もっと勉強しろッて?」
「夜も遅いんだ、寝たらどうだ」
「眠れないから弾いてンだよ」
「目を閉じているだけでも、体は休まる」
「休みたくねぇんだよ」
「寝なければ人は壊れてしまう。遅くまで勉強したいのは、凄まじいことだ。でも、心まで壊すことはない。城市大にいけなくてもっ…………」
ヴァイオリンを床に叩きつける。あんなに苦楽を共にした愛器を、こんなくだらないことで壊してしまう。
「なんなんだよ、なんなんだよ。あんたは俺の何が嫌なんだ? 第四に行ったことがそんなに癪に障るのか? ヴァイオリンを憩いにするのがそんなに悪いことなのかよ」
「もう夜は遅い」
「うるさいって言うなら最初からそう言えよ。勉強が順調なんだな? 城市大に行けなくても? 絡むなよ鬱陶しいな。下手くそなヴァイオリンの音は聴きたくねえ。明日仕事あるんだよな、うっせえよって。言やぁいいじゃねえか。もう弾かねえよ。壊れちまったから、もう弾かれねえよ。俺の、大切な、ああああアァ。なんでだよ、大切なヴァイオリンだったのに。ゴミかよ。よかったな、あんたは当初の目的通り、静かな夜を過ごすことができる。もうこの家にヴァイオリンの音がすることはない。ないんだよ。俺は、涙をかき消すために弾いていたんだから。涙の音が聞こえても、文句言うなよな」
父に言うのではない。自分に向けて、自分の不甲斐なさに泣いているのだ。俺はなんの実績もない子供で、父にとっては心配の対象で、でも俺が尖っているから、迂遠な聞き方になっただけなのだ。それは知っている。知っていることだらけだ。
床で壊れたヴァイオリンを拾い、力を加えてミシリと言わせる。父が悲しい顔をしていた。やがてヴァイオリンはギギィと音を立ててバキッと壊れた。
父を押しのけて、リビングのゴミ置き場まで行き、ヴァイオリンは晴れて粗大ゴミになった。
虚ろに体をよろけさせながらベッドに倒れ込む。どんな言葉をかけられても、結局ヴァイオリンは壊れる運命だったのかもしれない。強制イベント。だって、「綺麗な音色だ」と言われたとしても、俺はそれを皮肉と思い、ヴァイオリンを父へと投げつけていたに違いないから。
そう思うと夜に弾いたのは確信犯的な行動だったのかもしれない。ヴァイオリンをどこかで、壊したかったのかもしれない。




